北条泰家
北条 泰家(ほうじょう やすいえ、1307年?~1335年?)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、北条氏得宗家の一門。父は鎌倉幕府第9代執権・北条貞時。母は安達(大室)泰宗の娘・覚海円成で、第14代執権・北条高時の同母弟にあたる。妻は大仏維貞の娘か*1。仮名は四郎、官途は左近大夫将監。
兄・高時執権期間における泰家
生年については正確に分かっていないが、兄・高時が生まれた嘉元元年12月2日(1304年1月9日)*2から父・貞時が亡くなる応長元(1311)年*3までに生まれたと考えるべきであろう。
『諸家系図纂』所収「北条系図」(国立公文書館HP)には次のように記載されている。
兄・高時の延慶2(1309)年1月21日*4より後だろう、元服して初めは「相模四郎時利(ときとし)」と名乗ったらしい*5。意図的か偶然かは分からないが「時利」は祖父・北条時宗の兄・時輔の初名に同じで、仮名が「四郎」であったことは後述するが、太郎高時に次ぐ準嫡子として称したものだろう*6。
史料上での初見は、文保2(1318)~元応元(1319)年にかけて3回行われた日蓮宗と他宗派との問答(宗教論争)について記された『鎌倉殿中問答記録』*7(以下『殿中問答』と略記)と思われる。この史料では「左近大夫将監泰家」、「
「泰」は3代執権・北条泰時、「家」は北条時家(『尊卑分脈』では時政の祖父)と、各々先祖の1字ずつを取って構成されたものであろう。また、推測に過ぎないが、兄弟(高宣・高直)が高時の1字を受けている大仏家時の「家」は泰家の偏諱とも考えられる。
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次いで、元亨3(1323)年10月に挙行された亡父・貞時13年忌供養についての史料である『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』所収、以下『供養記』と略す)では次の箇所に記載される。
● 「……簾中右廊太守(=高時)御聴聞所、左大夫殿以下御一族御坐席也、……」*10。
● 25日の一品経の阿弥陀経調進において、母の「大方殿(=覚海円成)」、姉の「西殿大方殿(=師時後室)」に次いで「辟〔譬〕喩品 左近大夫将監殿」の記載あり*11。
●「同夜(=26日)、於無畏堂長老(=霊山道隠)有拈香、大方殿御仏事、其後諷経、其次於同堂陞座、左近大夫将監殿御分御仏事也、一切経転読供養也、……」*12。
尚、一品経の阿弥陀経調進の際には、同じ官途・通称名を持った「化城喩品 相模新左近大夫殿 同(=捧物卅貫)」の記載も見られるが、こちらは政村流の北条茂時に比定されよう。正中2(1325)年のものとされる11月22日付「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)の文中にも「……相模左近大夫将監殿・奥州(=北条維貞)・相模新左近大夫将監等未明に参候云々、……」とある*13が、これも同様で前者=泰家、後者=茂時とみなして良いと思う。
尚「相模」とは、泰家の父・貞時(9代執権)、茂時の父・煕時(12代執権)が各々相模守であった*14ことに由来する。
左近将監任官時期と生年の推定
ここで泰家の左近将監任官時期とその年齢について考えてみたい。前節で元亨・正中年間に現れる"相模新左近大夫将監"について北条茂時と推定したが、その「新」とは "相模左近大夫将監" 泰家との区別で付されたものである。茂時の左近将監任官および叙爵は文保元(1317)年7月29日と伝えられる*15ので、泰家の任官時期はそれ以前となる。
*茂時より後に泰家が "新"左近将監となった可能性は無いと考える。先に紹介した『殿中問答』では長崎高資について「長崎左衛門入道(=円喜)、新左衛門、同四郎左衛門尉(=高貞)」*16や「
文保元年当時、茂時が何歳であったかは明らかにされていないが、父・煕時の任官時に同じく15歳*18だったのではないかと推定される*19。
ここで、得宗家での左近大夫将監任官者とその年齢について、次の表で確認しておこう。
(経時 | 14*20) |
時頼 | 17*21 |
宗政 |
13*22 (※右近将監) |
師時 | 11*23 |
曽祖父にあたる時頼は本来、兄・経時に対する庶子(準嫡子)であり、経時が執権となって武蔵守に昇進した寛元元(1243)年に左近将監となっている。時頼は経時の早世もあって執権および得宗家家督の座を継いだが、時頼以降の得宗(時宗―貞時―高時)の叙爵時の官職は「左馬権頭」*24であり、準嫡子たる人物が左近将監となったようである。
尚、師時の子・貞規も『公衡公記』により正和4(1315)年当時18歳で既に「相模左近大夫」と呼ばれていたことが確認され*25、恐らくは師時と同じ11歳での任官と思われる。貞規は元応元(1319)年に亡くなるが、その後の金沢貞顕の書状から最終官途が右馬権頭であったことが分かり*26、これも父・師時に同じく20歳での任官だったのではないか。
すなわち1317年の段階で、貞規は右馬権頭に昇進し、泰家が新たな「相模左近大夫将監」となり、同年7月に同じく左近将監(左近大夫将監)となった茂時が「相模新左近大夫将監」と呼ばれたものと推測される。
【表3】鎌倉末期における「相模左近大夫将監」(推定)
年 | 北条貞規 | 北条泰家 | 北条茂時 | 北条時茂 |
永仁6(1298) | 生誕 | 左近大夫? | ||
延慶元(1308)? | 相模左近大夫(?) | (幼名不詳) | (幼名不詳) | |
正和4(1315) | 相模左近大夫 |
四郎時利? |
? | |
文保元(1317) | 右馬権頭(?) | 相模左近大夫将監 | 相模新左近大夫将監 | |
元応元(1319) | 没 | |||
元亨3(1323) | ||||
嘉暦元(1326) | 左近大夫将監入道 | 右馬権頭 | ||
1333 | 没 | |||
以後 | 刑部少輔(時興) |
勿論、貞規の右馬権頭昇進前に泰家が左近将監となって当初「新左近大夫(将監)」と呼ばれていた可能性も否定は出来ないが、今のところ史料で確認できないことからその期間は短かったのではないかと思われる。また泰家の叙爵は、同母兄・高時(『殿中問答』および 後掲【史料4】)9歳が叙爵の上で左馬権頭となった応長元(1311)年6月23日*27以後であったことも確実だろう。
「相模左近大夫 貞規」も含めた鎌倉の有力御家人・得宗被官の名を載せる前述の『公衡公記』正和4年3月16日条に記載が見られないことからすると、泰家の左近将監任官および叙爵は、『公衡公記』より後で、『殿中問答』や茂時の叙爵よりさほど遡らない1317年前半期であったと推測される。政村流の茂時ですら15歳であったから、【表2】を踏まえてもその任官年齢は11歳であったと思われ、逆算して1307年頃の生まれとしておきたい。これについては次節で更に裏付ける。
泰家の出家
正中3(1326=嘉暦元)年3月13日、元々病弱であった兄・高時が24歳の若さでありながら執権職を辞して出家する*28。高時の長子(のちの邦時)は生後3か月であり、本来であれば泰家が執権の座を継いでもおかしくない筈であったが、内管領・長崎高資ら長崎氏一門の阻止に遭い実現せず、これを恥辱として泰家も出家した*29という。
この所謂「嘉暦の騒動」については、次の史料に詳細な経緯が書かれている。
【史料4】『保暦間記』*30より(*読み易さを考慮し適宜濁点を追加)
……嘉暦元年三月十三日、高時依所労出家ス。法名宗〔崇〕鑑。舎弟左近大夫将監泰家、宜ク執権ヲモ相継グベカリケルヲ、高資、修理権大夫貞顕ニ語テ、貞顕ヲ執権トス貞顕義時子五郎実泰之彦 越後守実時孫 金沢越後守顕時子。爰泰家高時ノ母儀貞時朝臣後室城大室太郎左衛門女、是ヲ憤リ、泰家ヲ同十六日ニ出家セサス。無甲斐事也。其後、関東ノ侍、老タルハ不及申、十六七ノ若者ドモ迄、皆出家入道ス。イマ〳〵(イマイマ)シク不思議ノ瑞相也。此事泰家モサスガ無念ニ思ヒ、母儀モイキドヲリ深キニ依、貞顕誅セラレナント聞ヘケル程ニ、貞顕評定ノ出仕一両度シテ出家シ畢。……
祖父の時宗は13歳の時に父・時頼が亡くなり得宗の家督は継承したが、18歳までの成長を待ってようやく執権職を譲られた。父・貞時は時宗が亡くなった3ヶ月後14歳にしてそのまま執権職の継承が認められたが、貞時が亡くなった時9歳であった兄・高時は同じく14歳になるまで執権の座には就かなかった。嘉暦元年当時泰家が執権を継げる立場にあったとすれば、同じような年齢もしくはそれ以上に達していた筈である。
前述の師時・貞規父子と同様に、この頃20歳であれば左近将監から上の官職への昇進があった筈である。実際この年の9月には新左近大夫将監茂時が右馬権頭に昇進している*31。後から左近将監となった茂時が昇進し、得宗家準嫡子たる泰家がそうならない筈がない。
すなわち【史料4】当時20歳であったと推定され、1307年生まれであった可能性を裏付ける。ところが、昇進の話が出る前に出家してしまったため、左近大夫将監が最終官途となったというわけである。
この史料は鎌倉時代末期の評定衆のメンバーリスト(名簿)である。「城入道延明(安達時顕)」のみならず、行暁(二階堂行貞)・覚也(後藤基胤)・道大(太田時連)・行意(二階堂忠貞)が出家後の通称で記載されていることから、この【史料5】が書かれた時期は、彼らが高時剃髪に追随して出家した後、行暁(行貞)が亡くなる嘉暦4(1329)年2月2日までの筈である。筆頭の「相模左近大夫将監入道」は泰家に比定され、出家前「相模左近大夫将監」と呼ばれていたことを裏付ける*33。
その他出家後の呼称としては「相模入道……舎弟四郎左近大夫入道」(『太平記』巻12「公家一統政道事」)*34、「高時入道 四郎左近大夫泰家」・「四郎左近大夫入道」(『増鏡』)、「高時ノ弟左近大夫将監入道恵性」(『梅松論』)*35などと書かれている。
後者『増鏡』・『梅松論』にある通り、元弘3(1333)年5月には幕府軍が小手指原・久米川で相次いで新田義貞の軍勢に敗れたことを受け大将として加勢し、15日には分倍河原で一旦は勝利したが、16日早朝には寝返った大多和義勝(義行)の奇襲を受け、そのまま関戸の戦い(16日)でも敗れて鎌倉への侵攻を許してしまった。
鎌倉幕府滅亡後
同月22日、新田軍に追い詰められ、鎌倉東勝寺にて兄・高時ら一門や幕府中枢の御家人が自害して幕府は滅亡した(東勝寺合戦)。兄から後事を託されていたのか、この時泰家(恵性)は運命を共にせず、高時の次男(のちの時行)を逃がし、自身も一旦は陸奥国へ逃れたという(『太平記』巻10「亀寿殿令落信濃事付左近大夫偽落奥州事」、巻13「北山殿謀叛事」)。
とは言え、当然ながら所領は没収されており、同年7月19日には遠江国渋俣郷・蒲御厨、駿河国大岡荘、甲斐国安村別府、陸奥国泉荒田、土佐国下中津山といった「泰家法師跡(旧領)」が、飛騨国守護となった岩松経家に*36、8月には「相模入道……舎弟四郎左近大夫入道ノ跡」が「兵部卿親王(=護良親王)」に*37、11月30日には同じく「泰家法師跡」である備後国因島の地頭職が同国浄土寺の空教上人に*38それぞれ与えられているほか、後の話になるが興国3(1342)年6月27日にも「肥後国……健軍 郡浦 泰家法師跡」が「元弘勅裁に任せ」阿蘇大宮司・宇治惟時に宛行われている*39。
【史料1】や『太平記』(巻13「北山殿謀叛事」)*40にもあるように、その後は旧知の仲にあった西園寺公宗を頼って密かに上洛し「田舎侍が初めて召し抱えられた」体(てい)を装い潜伏、同時に還俗して「刑部少輔時興(ときおき)」を名乗ったという。「興」には北条氏再興の意味が込められているのであろう。建武2(1335)年6月、公宗と共に後醍醐天皇暗殺を企んだが、事前に計画が露見して公宗は捕らえられて処刑されたという。
『太平記』によれば、京都では時興(泰家)を大将として畿内近国の勢を集めていたらしい*41が、彼らは公宗誅殺の一報を聞くと東国や北国に逃れていったようで*42、時興の消息も以後不明となっている。
翌建武3(1336)年、信濃では甥・時行や諏訪頼重(照雲)らの軍勢が兵を挙げ、一時鎌倉を占拠した(中先代の乱)が、これに関連して同年2月15日、信濃国麻績御厨で挙兵し、北朝方の守護であった小笠原貞宗や村上信貞らと交戦したという「先代高時一族大夫四郎」を時興に比定する見解もある*43。但し「大夫四郎」は「大夫(左近大夫・右近大夫など)」の「四郎(息子、本来は4男の意)」と解釈すべきで、前述の通り時興であれば「刑部少輔」と呼ばれるのが妥当ではないかと思う。「舎弟」等ではなく「一族」と記す点からしても時興とは別人ではないかと思う。
*泰家には4人の男子(兼寿丸、菊寿丸、金寿丸、千代寿丸)があったと伝えられるが、幼名のためか早世したと考えられているが、それを示す根拠は無く、また全く可能性が無いわけではないものの全員が夭折したというのもどうも不自然に感じる。彼らのいずれかが無事成長し、父と同じ「四郎」の仮名を継承すれば「大夫四郎」になり得る。勿論その場合「高時甥」と記しても良さそうだが、一つの候補として泰家本人ではなくその息子という説を掲げておきたい。
*信濃の合戦では「大夫四郎」の他に「同(先代高時一族)丹波右近大夫」も参戦している*44が、こちらは丹波守貞宣の子で右近大夫将監であったという北条貞芙(貞英?)*45であろう。
いずれにせよ、その後の史料上に現れないことから、1335~1336年頃に北条時興(泰家)は亡くなったと考えて良いのではないか。
こちら▲のページ(Wikipedia)では「建武2年末に野盗によって殺害された」とする一説を掲げている(典拠不明 或いは 単なる推測か)が、公宗誅殺の後東国または北国に落ち延びる途上でそうされた可能性は考えられよう。手掛かりとなる新史料の発見を俟ちたいところである。
(参考ページ)
● 北条泰家とは 社会の人気・最新記事を集めました - はてな
脚注
*1:『正宗寺本北条系図』には維貞の女子(高宣・貞宗の妹)に「𣳾時室〔ママ〕」(*𣳾は泰の異体字)と記載があるが、年代的に当然ながら北条泰時ではなく、当該期「泰時」を名乗った人物も見当たらない。この系図では、嫁いだ相手の記載が(苗字無しで)実名のみの場合は北条氏一族に限るようで、当該期類似した名前を持つのは「泰家」くらいしか見当たらない。
*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*4:注2同箇所。
*5:北条泰家(ほうじょう やすいえ)とは - コトバンク より。
*6:「四郎」は元々、聖範・時家父子(『尊卑分脈』)および 時政、義時、経時が称していた仮名であり、その後は時宗の弟・宗政、その息子で貞時の義弟(時宗の猶子)にあたる師時といった具合に、執権職を継承し得る得宗家嫡男の次弟が「四郎」を名乗っていた。
*7:鎌倉殿中問答(かまくらでんちゅうもんどう)とは - コトバンク、日印 - Wikipedia #鎌倉殿中問答 より。
*8:史籍集覧. 27 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*9:従六位上相当の左近衛将監でありながら、叙爵して五位となった者の呼称(→ 左近の大夫(さこんのたいふ)とは - コトバンク)。
*10:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.693。
*11:前注同書 P.698。
*12:前注同書 P.704。
*13:『鎌倉遺文』第38巻29255号。
*14:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ および 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その47-北条熈時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*15:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その48-北条茂時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*16:史籍集覧. 27 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*17:史籍集覧. 27 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*18:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その47-北条熈時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*19:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.27。
*20:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その5-北条経時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*21:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*22:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その11-北条宗政 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*23:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その12-北条師時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*24:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪、新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪、新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*25:北条貞規 - Henkipedia 参照。
*26:前注に同じ。
*27:注2同箇所より。
*28:注2同箇所 および【史料4】より。
*29:法名の表記は恵性(『梅松論』、【史料1】)・恵清(『尊卑分脈』)・慧性と複数伝わるが、共通して「えせい」または「けいせい」と読むのが正しいであろう。
*30:佐伯真一・高木浩明 編著『校本保暦間記』(和泉書院、1999年)P.100。覚海円成史料集。
*31:注15同箇所。
*32:田中稔「根津美術館所蔵 諸宗雑抄紙背文書(抄)」(所収:『奈良国立文化財研究所年報』1974年号、奈良国立文化財研究所)P.8。
*33:もし出家前の呼称が「相模左近大夫将監」であったならば「相模新左近大夫将監入道」と呼ばれる筈である。
*35:『編年史料』後醍醐天皇紀・元弘3年5月 P.2~3。
*37:注34同箇所。
*40:『大日本史料』6-2 P.440、「太平記」北山殿謀反の事(その1) : Santa Lab's Blog。
*41:「太平記」北山殿謀反の事(その2) : Santa Lab's Blog。
*42:「太平記」中前代蜂起の事(その1) : Santa Lab's Blog。
*43:『市河家文書』所収 建武3年2月23日付「市河十郎経助軍忠状」。『大日本史料』6-3 P.100・101・102。