尾藤頼景
尾藤 頼景(びとう よりかげ、1230年代後半?~没年不詳)は、鎌倉時代中期の武将、御内人(得宗被官)。尾藤景氏の嫡男。尾藤時綱(演心)の父。
頼景については、生没年も含め不明な点が多い。まずは世代の推定にあたって、『尊卑分脈』に基づき作成した次の図を見ていただきたい。
頼景(景頼)は佐藤公清から数えて10代目にあたるが、親戚にあたる後藤氏での基頼と同じ代数となる*1。
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こちら▲の記事で紹介の通り、後藤基頼については暦仁元(1238)年生まれと判明しており、頼景もほぼ同世代人であったと考えて良いだろう。
既に細川重男氏が指摘の通り、実名の「頼」は第5代執権・北条時頼(在職:1246~1256年*2)の偏諱を賜ったものと見受けられる。これに従えば、通常10代前半で行う元服は早くとも1246年となるので、1230年代半ばより後の生まれとするのが妥当であろう。尚、実名について『尊卑分脈』が「景頼」とするのに対し、『続群書類従』所収「尾藤系図」では「頼景」と記載されるが、主君たる得宗からの1字を普通は上(1文字目)に置くと考えたのであろう、細川氏は後者が正しいと判断されている*3。
尚、『吾妻鏡』では時頼執権期の以下3箇所が頼景に比定される*4。
● 建長2(1250)年正月一日条「尾藤兵衛尉」
※但し、前述の通り1230年代後半、或いは1240年代の生まれとした場合、10代或いはそれ以下で兵衛尉に任官したことになり、かつ次の登場箇所では無官で「二郎」とだけ書かれているのも不自然になってしまうため、これは頼景と別人とするのが妥当ではないかと思う。
● 同4(1252)年正月一日条「尾藤二郎」
● 康元元(1256)年正月三日条「尾藤次郎兵衛尉」
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参考ページ
脚注
*1:途中養子相続を挟むため、正確には公清―季清―康清―仲清―基清―基綱―基政―基頼と、公清から8代目にあたるが、能清の実弟・基清が実基の養子であったということは重要であって、養父よりは年少(或いは老いていてもほぼ同世代)であったと考えるのが自然と思われる。代数の少なさは親子の年齢幅の違いに起因するものであろう。
*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*3:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.214 注(24)。
*4:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.422「頼景 尾藤」の項 より。