安達泰盛
安達 泰盛(あだち やすもり、1231年~1285年)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。
泰盛の生年と烏帽子親について
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『関東評定衆伝』弘安4(1281)年条によると、同年2月「城九郎藤原宗景」が23歳(数え年、以下同様)となったので、父の例に倣い引付衆に加えられたという*2。この記載により、父である「城九郎藤原泰盛」が建長5(1253)年に引付衆となった時*323歳だったことが分かるので、逆算すると寛喜3(1231)年生まれとなる。
これに基づき、紺戸淳氏の論考*4に従うと、元服の年次はおおよそ1240~1245年と推定可能であるが、『吾妻鏡』での初出が寛元2(1244)年6月である*5からこの時までに済ませたはずである。
「泰盛」の名は、「盛」が「兼盛―盛長―景盛(泰盛祖父)」と続いた字であるから、貫達人氏のご推測通り、一方の「泰」字が仁治3(1242)年まで3代執権の座にあった北条泰時*6からの偏諱であろう*7。奇しくも父・義景と同様に、泰盛も北条泰時晩年期に元服を遂げたことになる。
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泰盛の一字付与について
泰盛の在世中には、その偏諱を受けたとみられる人物が少なからず確認される。泰盛が烏帽子親を務めたとする確証となる史料は無く、あくまで推測となってしまうが、本節ではその候補者を紹介したいと思う。
玉村泰清
まずは山野龍太郎氏*8が紹介されている通り、上野国玉村御厨を本領とする玉村氏(泰清―盛清)は、同国を基盤としていた有力御家人の安達氏(泰盛―盛宗)と同じ1字を共有することから、烏帽子親子関係にあったとされる。玉村氏が安達氏から上1字を賜る形となっている。玉村泰清は泰盛と主従関係を築きながら被官化し、「たまむらの三郎盛清(玉村盛清)」は肥後国守護代として下向した安達盛宗に従って、弘安の役にも参戦した(『蒙古襲来絵詞』*9)。
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少弐盛氏(=景資?)・少弐盛経
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『歴代鎮西志』には、太宰豊前守盛氏(少弐舎弟、始名三郎左衛門景資)が元寇での功績を嵩にきて嫡流の座を簒奪しようと挙兵するが、岩門にて滅んだとの説明がある。『豊津町史』は、少弐経資の弟・景資が晩年に安達泰盛の1字を受けて(少弐)盛氏に改名したとしており*10、実際泰盛の子で鎮西に下った安達盛宗と運命を共にしている。
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『尊卑分脈』では経資の弟を「盛資」と記すが、いずれにせよ「景」や「盛」の字は安達氏の通字に関係するものであろう。
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また、こちら▲の記事で経資の子・資時が8代執権・北条時宗の烏帽子子であったと推定したが、『尊卑分脈』に同じく経資の子として記載のある少弐盛経については、資時に次ぐ庶子(恐らくは準嫡子、後述参照)として同じく泰盛の偏諱を受けた人物ではないかと思われる。
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息子・貞経が文永9(1272)年生まれであることからすると、盛経は資時の兄であった可能性が高いが、烏帽子親の違いからすると盛経は当初庶兄だったのかもしれない。しかし弘安の役で資時が戦死したので、結局は家督を継承することとなったが、一般の外様御家人とはいえ時宗の義兄であった泰盛の1字を受けていた故にその資格があったのだろう。貞経は9代執権・北条貞時の偏諱を受けているが、泰盛の甥・義孫であった貞時を烏帽子親にしたというのも自然な流れであろう。
宇都宮盛綱
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こちら▲の記事でも述べた通り、宇都宮経綱の次弟・景綱は安達義景の偏諱「景」を受けたとされ*11、末弟・盛綱についても安達泰盛からの一字拝領ではないかと推測した。景綱は嘉禎元(1235)年生まれ*12、『吾妻鏡』建長4(1252)年4月1日条に「下野四郎景綱」と初めて現れた当時は数え18歳となるので、義景晩年期の元服だったことになる。翌5(1253)年に義景が逝去し泰盛が安達氏惣領を継いでいるから、弟である盛綱の元服もそれ以後に行われたと考えて良いだろう。
景綱は義景の娘を妻に迎えており、霜月騒動に際しても義兄である泰盛の側について一時的に失脚している。
大江姓上田(殖田)氏
『続群書類従』所収「大江系図」によると、大江広元の長男・親広の系統から出た殖田泰広と2人の息子(殖田盛広・殖田泰元)も霜月騒動に連座したという*13。親広の孫(佐房の子)佐泰・佐時兄弟は恐らく北条泰時の一字拝領者で、佐泰の子である泰広は単に父の1字を継承したとも考えられるが、少なくともその長男である盛広の「盛」は泰盛の偏諱と見受けられる。
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同じく『続群書類従』や『系図纂要』の佐々木氏系図によると、京極氏信の娘(頼氏の姉または妹)が殖田佐時の妻であったといい、その間に生まれた殖田広宗(佐々木広宗)は外祖父・氏信の養子となって源姓佐々木氏を称し、その子・宗清は霜月騒動で頼氏とは反対の泰盛方につき討ち死にしたという*14。
小笠原流伴野氏
信濃源氏・小笠原氏の支流で、泰盛にとっては母方の一族である。
『続群書類従』所収「小笠原三家系図 参河小笠原」や『系図纂要』によると、長泰―盛時―泰房の嫡流3代はいずれも霜月騒動に連座しており*15、特に伴野盛時の名乗りからするといずれも泰盛の偏諱を受けた可能性が高い。長泰・泰直兄弟は泰盛とは従兄弟関係にあった。
武藤景泰
前述の少弐経資・景資(盛資/盛氏)兄弟の従兄弟にあたる父・景頼(『尊卑分脈』)が元久2(1205)年と分かっている*16ので、現実的な親子の年齢差を考えれば、景泰の生年は1225年頃より後と推測可能である。『尊卑分脈』では「頼泰」とするが、いずれにせよ父から「景」または「頼」の字を継承し、「泰」の字を烏帽子親から拝領したと考えられる。同族・少弐氏の名乗りや、景泰自身が霜月騒動に連座している*17 ことからすれば、その名乗りは泰盛の偏諱を受けたものであろう。
葦名泰親・葦名盛次
その他、安達泰盛の偏諱を受けた可能性が考えられる人物として、葦名泰親(四郎左衛門尉)・葦名盛次(五郎左衛門尉)が挙げられる。三浦氏一門・葦名盛宗の弟であり、泰親が安達泰盛に側近として仕えていたことは『竹崎季長絵詞』に描かれる通りで*18、泰親・盛次・時守(六郎左衛門尉)兄弟および三浦対馬前司頼連は霜月騒動に連座している。或いは単に父・葦名泰盛の1字を継いだ可能性も十分あり得るが、偶然にも同名であった。
(参考ページ)
● 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その82-安達泰盛 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)
脚注
*1:湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』〈動乱の東国史3〉(吉川弘文館、2012年)P.191 より。
*2:群書類従. 第60-62 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*3:『吾妻鏡』同年12月22日条。群書類従. 第60-62 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*4:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)。10~15歳での元服とした場合。
*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*7:貫達人 「円覚寺領について」(所収:『東洋大学紀要』第11集、1957年)P.21。
*8:山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』, 思文閣出版、2012年)P.176~177。
*9:蒙古襲来絵詞 (模本) - 九大コレクション | 九州大学附属図書館 参照。
*11:江田郁夫 「総論 下野宇都宮氏」(所収:江田郁夫 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻 下野宇都宮氏』(戎光祥出版、2011年))P.9。
*12:「宇都宮系図」(『続群書類従』六下所収)景綱の注記に永仁6(1298)年5月1日に64歳で亡くなったとあり、逆算すると1235年生まれ。細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」P.74-75、No.105「宇都宮景綱」の項(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その105-宇都宮景綱 | 日本中世史を楽しむ♪ と同内容)。秋山哲雄『北条氏権力と都市鎌倉』(吉川弘文館、2006年)P.120。
*13:福島金治『安達泰盛と鎌倉幕府 ―霜月騒動とその周辺』〈有隣新書63〉(有隣堂、2006年)P.180。大江佐房 - Wikipedia も参照のこと。
*14:前注福島氏著書 P.179~180。
*15:前注福島氏著書 P.181。
*16:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№115-武藤景頼 | 日本中世史を楽しむ♪ より。