上山高元
上山 高元(かみやま たかもと、1311年~1348年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。通称は六郎左衛門、修理亮。
【史料】『常楽記』より*1
貞和四年戊子 正月五日 上山修理亮高元 卅八 東條合戦打死
この史料により、貞和4(1348)年1月5日に38歳で亡くなった人物として「上山高元」の実在が確認でき、逆算すると応長元(1311)年生まれ。同年10月26日には北条貞時が亡くなって*2、子の北条高時が得宗の地位を継いでおり、十数年後の元服当時、鎌倉幕府第14代執権の座にあった高時(在職:1316年~1326年)*3から「高」の偏諱を許されたとみて間違いないだろう。
系図上で高元の名を見出すことは出来ないが、「元」の字と「修理亮」の官途が通ずることから、『尊卑分脈』大江長井氏の系図上にある上山宗元の子孫と判断される。世代からすると、宗元の孫(貞元または貞泰の嫡男)だったのではないかと思われる。
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この推定が正しければ、宗元―貞泰(または貞元)―高元と3代に亘り、北条氏得宗(時宗―貞時―高時)と烏帽子親子関係を結んでいたことになる。宗元は長井茂重の長男であったが、父方では大叔父、母方でも祖父にあたる上山泰経の名跡を継いだようであり、泰経が北条泰時の偏諱を受けたのに倣って慣例化していたものと推測される。
『太平記』巻26にも、「四条縄手合戦事 付上山討死事」と題して、同じく貞和4年1月5日に「上山六郎左衛門」なる者が高師直の身代わりとなって討ち死にしたことが描かれている*4が、この「上山六郎左衛門」も高元と考えて良いだろう*5。最終官途が実際と異なるが、修理亮となる前の高元の通称名をそのまま採用したものではないか。また異本によっては「長井修理亮」と書かれているものもあるらしく、かえってこれが長井氏一門の上山氏で修理亮=高元であったことを裏付けているとも言えよう。
高元の鎌倉幕府滅亡時の詳しい動向は不明だが、北条氏とは運命を共にせず、足利尊氏の執事である師直の家臣として立派な最期を遂げたのであった。
(参考ページ)
● 宮崎繁吉『豪傑の臨終』(大学館、1900年)「上山高元」の項