Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

長井貞広

長井 貞広(ながい さだひろ、1271年~1323年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。通称は長井備前左近大夫。

 

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『尊卑分脈』等の長井氏系図長井時秀の子、長井宗秀の弟として載せられており、「左将監(=左近将監)」・「従五下(=従五位下」等の注記も見られる。

ja.wikipedia.org

長井貞広 (鎌倉時代) - Wikipedia で紹介の通り、細川重男の研究*1によると、以下史料における「長井左近大夫入道」が貞広に比定されるという。通称名は父・時秀が備前守で、自身が左近大夫将監*2で入道(出家)していたことを表すものである。

徳治3/延慶元(1308)年9月東使として上洛。

延慶3(1310)年10月:東使として上洛。

  • 『鎌倉大日記』(生田美喜蔵 氏 所蔵本)裏書・延慶3年条「長井左近大夫将監入道
  • 元徳二年三月日吉社並叡山行幸記』:「長井左近大夫入道々漸

正和3(1314)年政所執事二階堂行貞法名:行暁)の補佐。

元亨3(1323)年:逝去。

 

東使(関東御使)として上洛の記事が多く見られ、元々は鎌倉在住の御家人であったことが窺える。また、『常楽記』での記載(享年53は数え年、以下同様)*3に従って逆算すると文永8(1271)年生まれと分かる。

 

ここで「」の実名に着目すると、「広旧字体:廣)」は祖先の大江広元―長井時広(曽祖父)間で継承された字であるから、「貞」が烏帽子親からの一字拝領と考えられるが、これは得宗北条偏諱であろう。前述の生年に基づくと、貞時が父・北条時宗の死に伴って9代執権となった弘安7(1284)年*4当時14歳と元服の適齢である。文永2(1265)年生まれの兄・秀が1270年代後半に元服して時の1字を受けたのに対し、弟である広は執権職を継いだばかりの時から1字を賜ったことになり、前述『常楽記』の「長井将監入道」=貞広であることはこの観点からも裏付けられよう。

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ちなみに『常楽記』には、奇しくも同日に同年齢で「河越出羽入道」=河越宗重が亡くなったことも書かれている。同い年でありながら元服のタイミングが若干早かったのであろう、重は北条時の1字を受けているが、その弟とされるは同じく北条時の1字を受けた形跡が見られ、長井宗秀・貞広兄弟に同じく得宗の代替わり(1284年)の前後で元服を遂げたケースであった。

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脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.140「長井貞広」の項。

*2:従六位上相当の左近衛将監でありながら、叙爵して五位となった者の呼称。「大夫」は五位の通称である。左近の大夫(さこんのたいふ)とは - コトバンク より。

*3:『常楽記』(龍門文庫蔵古写本)より。

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪、および 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。