大室泰宗
安達 泰宗(あだち やすむね、1254年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代中期から後期の武将・御家人。安達氏の庶流・大室氏の出身で大室泰宗(おおむろ ー)とも呼ばれる。
大室流安達氏各世代の推定
この『尊卑分脈』によると、父は安達義景の次男・大室景村(かげむら)。弟に大室義宗(三郎次郎)、娘に北条貞時室(=覚海円成)がいる。
父・安達景村
まず、父・景村(大室三郎)については、その兄・関戸頼景(次郎)が1229年生まれ*2、すぐ下の弟で秋田城介を継いだ安達泰盛が1231年生まれ*3と判明しているから、間を取って1230年生まれとみなすのが妥当であろう。勿論、頼景や泰盛とは異母兄弟で、同じ年に別々の母親が生んだ可能性も否定はできないが、いずれにせよ1230年前後からずれることは無い筈である。『吾妻鏡』では20歳頃であった建長2(1250)年から9回、次の箇所に登場している*4。
【表2】
年 | 月日 | 表記 |
建長2(1250) | 8.18 | 城三郎 |
12.27 | 城三郎 | |
建長3(1251) | 11.13 | 城三郎 |
建長4(1252) | 4.3 | 城三郎 |
8.1 | 城三郎 | |
建長6(1254) | 6.16 | 城次郎 同三郎 |
建長8(1256) | 1.1 | 秋田城介 同三郎 |
6.29 | 城次郎 同三郎 同四郎 | |
正嘉2(1258) | 6.17 | 秋田城介 同三郎 同四郎左衛門尉 |
従って、景村の子である泰宗・義宗兄弟の生年は1250年以後であったと推定可能である。
娘・覚海円成
『分脈』では泰宗の女子に「貞時朝臣母」とある。ところが安達泰盛の末妹にも「平貞時朝臣母 号潮音院尼」と注記されており、北条貞時の生みの母親が2人いたことになってしまう。しかし、次の史料により泰宗の娘は「貞時朝臣妻」或いは「高時朝臣母」であったことが分かる。
【史料3】『保暦間記』*5より(*読み易さを考慮し適宜濁点を追加した)
……嘉暦元年三月十三日、高時依所労出家ス。法名宗〔崇〕鑑。舎弟左近大夫将監泰家、宜ク執権ヲモ相継グベカリケルヲ、高資、修理権大夫貞顕ニ語テ、貞顕ヲ執権トス貞顕義時子五郎実泰之彦 越後守実時孫 金沢越後守顕時子。爰泰家高時ノ母儀貞時朝臣後室城大室太郎左衛門女、是ヲ憤リ、泰家ヲ同十六日ニ出家セサス。無甲斐事也。其後、関東ノ侍、老タルハ不及申、十六七ノ若者ドモ迄、皆出家入道ス。イマ〳〵(イマイマ)シク不思議ノ瑞相也。此事泰家モサスガ無念ニ思ヒ、母儀モイキドヲリ深キニ依、貞顕誅セラレナント聞ヘケル程ニ、貞顕評定ノ出仕一両度シテ出家シ畢。……
正中3(1326=嘉暦元)年3月13日、元々病弱であった北条高時が24歳の若さでありながら14代執権を辞して出家する。この時高時の長子(のちの邦時)は生後3か月であり、本来であれば弟の泰家が執権の座を継いでもおかしくない筈であったが、内管領・長崎高資ら長崎氏一門の阻止に遭い実現せず、これを恥辱として泰家も出家したという。所謂「嘉暦の騒動」である。
この一連の経緯には高時・泰家兄弟の母であった「貞時朝臣後室(=未亡人)城大室太郎左衛門女(=娘)」も深く憤り、誅殺の噂を聞いた金沢貞顕が15代執権を僅か10日で辞任する事態となっている。ここにある「城大室太郎左衛門」というのは、【図1】における大室三郎景村の子・太郎左衛門尉泰宗に一致しており、実在と通称名が裏付けられる(【表2】にもあるように「城」は秋田城介・安達氏一族に用いられた)。
外孫・北条高時に至るまで
高時については嘉元元(1303)年*6生まれと判明しているので、次のように各親子の年齢差を約24とすればちょうど辻褄が合う。
景村(1230頃-)―泰宗(1254頃-)―覚海円成(1278頃-)―高時(1303-)―邦時(1325-)
よって、泰宗・円成父娘の生年もこの推定から大幅にずれない頃であったと考えて問題ないだろう。特に円成は、1272年生まれの貞時より6歳ほど年少であったことになり、この点から言っても貞時の母になり得ることは無く、年齢の近い妻であったことが窺えよう。
烏帽子親の推定
以上より、泰宗の生年は1250年代半ば頃であったと推測される。
ところで、泰宗・義宗兄弟は共通して「宗」の字を持っているが、一方「泰」は安達氏惣領の叔父・泰盛、「義」は祖父・義景から取ったものとみられるから、この「宗」が烏帽子親からの一字拝領と考えるべきであろう。
6代将軍・宗尊親王が解任の上で京都へ送還された文永3(1266)年*7の段階では約10歳前後であったと考えられ、元服の適齢でないとは言えないまでも、その1字を賜るにはややタイミングが早い感じも否めない。何よりも、その後も含め得宗家と深い関係があったと見受けられるから、これは得宗・北条時宗(1263年~家督継承、執権在職:1268年~1284年)*8の偏諱と見なすのが妥当である。特に義宗の系統はその後も「長貞―盛高」に貞時―高時からの一字拝領の形跡が見られる。
大室流安達氏は、婚姻と烏帽子親子関係双方を通じて得宗家と連携を深めたのであった。
脚注
*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション および 細川重男「秋田城介安達時顕-得宗外戚家の権威と権力-」(所収:細川『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力-』第六章、日本史史料研究会、2007年)P.140~141に掲載の図 に基づき作成。
*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その81-関戸頼景 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その82-安達泰盛 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*4:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.95「景村 安達」の項 より。
*5:佐伯真一・高木浩明 編著『校本保暦間記』(和泉書院、1999年)P.100。覚海円成史料集。
*6:旧暦の誕生日の関係で厳密には西暦は1304年。