大仏貞宣
北条 貞宣(ほうじょう さだのぶ、1285年頃?~1320年)は、鎌倉時代末期の武将・御家人。
大仏流北条氏の一族で、大仏 貞宣(おさらぎ さだのぶ)とも呼ばれる。官途は兵庫助、丹波守。
はじめに ー 貞宣の経歴
新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その78-大仏貞宣 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ記事)*1による活動経歴は次の通りである。
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№78 大仏貞宣(父:大仏宣時、母:未詳)
生没年未詳
丹波守(『前田本平氏系図』。『正宗寺北条系図』。『佐野本北条系図』)
従五位下(『佐野本北条系図』)
01:正和2(1313).07.26 四番引付頭人
02:元応1(1319).⑦,13 三番引付頭人
03:元亨2(1322).07.12 辞三番引付頭人
[典拠]
父:『前田本平氏系図』。『正宗寺北条系図』。『佐野本北条系図』。
01:鎌記・正和2年条。
02:鎌記・元応元年条。
03:鎌記・元亨元年条。
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元服時期の推定
三人の兄 宗宣・宗泰・貞房
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細川氏も言及されているが、大仏宣時の4人の息子*2の名乗りに着目すると、宗宣・宗泰が8代執権・北条時宗、貞房・貞宣が9代執権・北条貞時の偏諱を受けていることが分かる。特に深い意味もないと思うが、貞宣は長兄・宗宣に同じく父・宣時の「宣」を引き継いでいる。
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こちらの記事▲で紹介の通り、貞房は文永9(1272)年の生まれと判明しているが、「貞」の偏諱を受けるには、北条貞時が家督・執権職を継いだ弘安7(1284)年4月以後の元服でなくてはおかしい。
従って貞宣も、文永9年より後の生まれで、同じく弘安7年4月以後の元服だったはずである。
甥・維貞の名乗り
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もう一つ、ポイントになるのが、長兄・宗宣の嫡男(のちの大仏維貞)が元服後に名乗った初名である。
宣時のあと、「宗宣―貞宣―高宣」と「宣」が通字として継承されていってもおかしくはないように思うが、実際は「宗宣―貞宗―高宣」であった。
貞宗の実名は、北条貞時の偏諱「貞」+父・宗宣の「宗」で構成されたことは間違いなかろう。「宗」の字は元々、宗宣が北条時宗(貞時の父)から拝領したものであり、貞時の偏諱拝領者が皆同様の名乗り方をすれば「貞宗」の名前の御家人がありふれてしまうことにもなり兼ねないため、特に事情が無ければ避けるのが普通と思われる。
<参考>「貞宗」を名乗った御家人
実際に「貞宗」と名乗ったケースは、大友氏、小笠原氏、小田氏、小山氏、佐々木(京極)氏、二階堂氏*3、そして北条氏一門・名越宗長の子の一人(=名越貞宗)に見られる。いずれも貞時の偏諱拝領者であろう。
勿論、各々の家での事情があり一概に同じ理由が当てはまるわけではないが、小田氏は貞宗の兄弟(宗知の子)に知貞*4、小笠原氏も貞宗の兄(宗長の子)に貞長がいたので、父から「宗」字を継承する形で「貞宗」を名乗ることになったのだと推測される。小山氏では貞朝を養子に迎えた宗朝にも貞宗という実子があり(『尊卑分脈』)、貞朝が宗朝の養子となった後に元服し、その後の貞宗の元服で名の重複が避けられた可能性もあり得よう。
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大友貞宗についてはこちらの記事▲で親時の子、貞親の弟であると結論づけた。頼泰―親時―貞親と、北条時宗の「宗」字は受けておらず(但し親時の「時」が時宗の偏諱の可能性はあり得る)、貞宗の「宗」については由来が不明であるが、兄と同名を避けるのは勿論のこと、父の1字を継承して烏帽子親・北条貞時と同名、もしくは「時貞」と名乗るわけにもいかなかったことは容易に想像できる。
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京極宗綱の子・貞宗の場合は「貞綱」と名乗っても良さそうだが、当初嫡子であった次兄・時綱(17才で早世:『尊卑分脈』)が「綱」字を使用していたことが影響しているのかもしれない。
総括すると、「貞宗」を名乗った御家人は、先に元服を済ませていた兄が「貞時からの偏諱+家の通字」の構成で名乗り、それと同名を避ける目的で名乗ったケースが多かったことが窺える。つまり、そのような事情でも無い限り「貞宗」を名乗ることはなかなかなされないと思って良いだろう。
このような観点から、宗宣の嫡男が「貞宗」ではなく「貞宣」と名乗る可能性もあったのではないかと思うのである。勿論、「宗宣―貞宗」が「宣時―宗宣」と同じく父の上1文字を取ったものと考えられなくもないが、それ以外にも「貞宗」を名乗ることとなった事情があったのではないかと推測される。それが、既に「貞宣」と名乗る別の人物の存在と思われる。
すなわち、宗宣の弟が先に元服を済ませて「貞宣」と名乗り*5、その後に元服した宗宣の嫡男は同名を避けて「貞宗」(のち維貞)を名乗ったと考えられるのである。貞宣が維貞より後に生まれながら先に元服を遂げるとは考えにくいので、貞宣の方が生まれも元服も先(前)であったとみて良いだろう。
維貞は1285~86年の生まれとされ、正安3(1301)年の貞時出家前に式部少丞となって叙爵するまでには元服を済ませていたと考えられるが、次の史料により貞宣の生年が1285年以前であったことが裏付けられると思われる。
【史料A】
上の史料は、『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用されている施薬院使・丹波長周の注進状である*6が、同月8日に鎌倉を襲った大火の被災者の中に「丹波守貞宣」が含まれている。すなわち貞宣はこの当時丹波守に在任であったことが分かる。国守任官に相応の年齢を考えると30代には達していたはずであり、生年は1285年より前と推定可能である。
兵庫助在任と生年・烏帽子親の推定
併せて、山口隼正氏が紹介された『入来院本平氏系図』*7を見ておきたい。
【図B】
山口氏はこの部分を含む北条氏系図について、成立時期を鎌倉時代後期の1316~1318年の間と推定されている*8。注目すべきは最終官途が「越前守」であることの明らかな三兄・貞房が「式部大夫」、貞宣についても「兵庫助」と、途中の官職を記している点であるが、古系図ゆえ、北条氏全体の編纂より前に書かれた当時の官職が書かれているわけである。長兄・宗宣が「奥州」=陸奥守となり(1301年就任)、次兄・宗泰が土佐守となって嘉元3(1305)年に他界した旨が記されているから、書かれたのはそれ以後で、翌徳治元(1306)年7月19日には貞房が越前守に昇っている*9から、その間(1305年9月頃~1306年7月)ということになる。従って、宗泰逝去から間もない段階では貞房・貞宣兄弟は昇進前であったと推測される。
兵庫助は正六位下相当の官職であり、宗泰が亡くなった嘉元3年当時の貞宣は叙爵前であった可能性が高い。ここで考えるべきは大仏流北条氏における叙爵の年齢である。
細川氏のまとめ*10によると、大仏流嫡流では宣時が30歳、宗宣が24歳、維貞が17歳と次第に低年齢化しており、三兄・貞房も叙爵年齢は19歳であった。よって、貞宣もその例外ではなく10代後半~20代前半での叙爵であったと思われる。貞房と同じく19歳とした場合だと1287年頃の生まれ、宗宣と同じ24歳の場合だと1282年頃の生まれとなり、前述【史料A】の時期に30歳前後を迎える。
よって、貞宣は1284~1285年頃の生まれで、甥の維貞とほぼ同世代の人物であったと推定され、元服当時執権の座にあった北条貞時が烏帽子親となって「貞」の偏諱を下賜したと判断される。
『常楽記』元応2(1320)年5月15日条には「陸奥丹波守他界」との記述が見られ、その通称名は父・宣時が陸奥守、自身が丹波守である貞宣に相応しく、この日に貞宣が亡くなったことが分かる*11。
冒頭の経歴表で細川氏は、元亨2(1322)年7月12日に三番引付頭人を辞したことが『鎌倉年代記』に記載されている旨を紹介されているが、実際には引付頭人のメンバーが記されているのみで、元応元(1319)年と元亨2年で変化していることしか分からない。すなわち、元亨2年以前に貞宣が亡くなったとしても矛盾はなく、この人事の変化の一因が貞宣の死去であったことを裏付けていると言えよう。
● 元応元(1319)年条:「閏七月十三日 引付頭 一守時 二顕実 三貞宣 四貞将 五時顕」
● 元亨2(1322)年条:「七月十二日 引付頭 一守時 二顕実 三時春 四貞直 五時顕」
貞宣の子である時英・貞芙・高貞は、1333年の鎌倉幕府滅亡時の東勝寺合戦で北条高時らと運命を共にしている。
(参考ページ)
脚注
*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.78「大仏貞宣」と同内容。
*2:厳密には他に、僧籍に入った寛覚と養子(苅田流北条為時の子)の宣覚がいる。
*3:鎌倉時代後期から南北朝時代の僧・頓阿(とんあ/とんな)の俗名とされる。生年は1289年と判明しているので、貞時執権期の元服で「貞」の偏諱を許されたことは間違いないだろう。一方、辞書類では二階堂光貞の子とするが、『尊卑分脈』を見ると「宗実―光貞―高実」と代々得宗からの偏諱を受けていることは明らかである。同じ二階堂氏の「行貞―貞衡」父子のように2代に亘って貞時の偏諱を受けた事例が無くもないが、1284~89年の間に光貞が元服し(元服の年齢は通常10代前半)、息子の貞宗が生まれたというのはあまり現実的でないように思う。『尊卑分脈』でも貞宗は光貞の兄となっており(但し法名は「法忠」)、こちらの方が正しい可能性が高いのではないか。藤原師実の末裔(具体的な家系は不詳)とする別説もあるが、いずれにせよ貞時の一字拝領者に間違いないだろう。
*4:『尊卑分脈』〈国史大系本〉では知貞を兄として載せる。父・宗知の場合は、同じく時知の子(庶子)北条道知を弟として載せるので、兄弟順は系図の記載通りで良いと思う。小田知貞の場合、北条貞時からの偏諱「貞」を下(2文字目)にしていることから、母親の出自ゆえか、当初から庶子(庶兄)であったと思われる。但し父から「知」の字を継承したので、後に生まれ元服した小田貞宗は「宗」字を継承したものと推測される。
*5:貞宣が父の1字を継承した理由については次のように推察される。家祖・北条時房の1字を用いた三兄・貞房と同名を避けるのは言うまでもないが、次兄・宗泰が3代執権・北条泰時にあやかって選択したと思わしき「泰」字も、先に生まれ元服したであろう政村流北条貞泰(のちの煕時)と同名となるため使用の候補から外れたと思われる。時房の子・朝直の両字も候補に出来そうだが、特に案が出ていなかったかもしれない(ちなみに宗泰の子が "貞直"、貞宣の子が "貞朝" を称している)。
*7:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.28。
*8:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(上)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.4。