Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

大室義宗

安達 義宗(あだち よしむね、生年不詳(1250年代後半?)~1285年)は、鎌倉時代中期から後期の武将・御家人。安達氏の庶流・大室氏の出身で大室義宗(おおむろ ー)とも呼ばれる。通称は城三郎次郎(城三郎二郎)

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▲【図A】安達氏略系図*1

 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

こちら▲の記事で、父・大室景村(かげむら)を1230年頃の生まれ、兄・大室泰宗を1250年代半ば頃の生まれと推定した。よって、義宗も泰宗とさほど年齢の離れていない弟であったと推測される。

兄弟に共通する「」の字がその傍証の一つになり得るだろう。「」は安達氏惣領の叔父・泰盛、「」は祖父・義景から取ったものとみられるから、「」が烏帽子親からの一字拝領と推測される。

6代将軍・宗尊親王が解任の上で京都へ送還された文永3(1266)年*2の段階では約10歳前後であったと考えられ、元服の適齢でないとは言えないまでも、その1字を賜るにはややタイミングが早い感じも否めない。何よりも、その後も含め得宗家と深い関係があったと見受けられるから、これは得宗北条時(1263年~家督継承、執権在職:1268年~1284年)*3偏諱と見なすのが妥当である。

 

【図A】を見る限り、兄・泰宗には北条貞時室となった娘(=覚海円成)しかいなかったようであり、義宗が生前その跡を継いだことは容易に想像できる。義宗の系統はその後も得宗家と烏帽子親子関係を結び、「長―盛」が時―時から一字を拝領したと見受けられる。

 

12月2日の日付がある安達泰盛乱自害者注文」(熊谷直之氏所蔵『梵網戒本疏日珠抄裏文書』)*4には、弘安8(1285)年11月の霜月騒動で討たれた者の中に「城三郎二郎」の記載があり、『鎌倉遺文』では(大室義宗)と記すが、【図A】と照合してもこの通りで間違いなかろう。「城」は秋田城介・安達氏の一族に付されるもので、城三郎(=景村)の「二郎(=次男)」である義宗に相応しい。すなわち、大室義宗(安達義宗)霜月騒動で叔父・泰盛ら一門に連座して討たれたことが分かる。 

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション および 細川重男「秋田城介安達時顕-得宗外戚家の権威と権力-」(所収:細川『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力-』第六章、日本史史料研究会、2007年)P.140~141に掲載の図 に基づき作成。

*2:宗尊親王(むねたかしんのう)とは - コトバンク より。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*4:『鎌倉遺文』第21巻15738号。年代記弘安8年