大室長貞
安達 長貞(あだち ながさだ、生年不詳(1280年代前半?)~没年不詳)は、鎌倉時代後期の武将・御家人。安達氏の庶流・大室氏の出身で大室長貞(おおむろ ー)とも呼ばれる。大室義宗(安達義宗)の嫡男。通称は三郎。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
こちら▲の記事で、祖父・大室景村(かげむら)を1230年頃、その子である伯父・大室泰宗と父・義宗を1250年代の生まれと推定した。
従って、親子の年齢差を考慮しても、義宗の子である長貞の生年が1270年代より前になることは考え難く、義宗については1250年代後半の生まれと推定したので、もう少し下らせておよそ1280年頃、もしくはそれ以後の生まれとしても良かろう。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
こちら▲の記事で紹介の通り、12月2日の日付がある「安達泰盛乱自害者注文」(熊谷直之氏所蔵『梵網戒本疏日珠抄裏文書』)*2には、弘安8(1285)年11月の霜月騒動で討たれた者の中に「城三郎二郎」の記載があり、父・義宗が霜月騒動で安達泰盛ら一門と運命を共にしたことが窺える。よって、この年までに生まれたと考えて良いだろう。仮に父の死後に生まれたとしても、現実的に考えて翌9(1286)年には生まれていなければおかしいので、遅くとも1280年代の生まれであることは確実である。
以上より、長貞の生年は1270年代後半~1280年代前半であった可能性が高いと判断できる。元服は通常10代前半で行われたから、その年次が得宗・北条貞時執権期間(執権在職:1284年~1301年)*3内であったことは確実となり、「長」が家祖・安達盛長に由来すると考えられることからしても、「貞」は慣例に従って貞時から偏諱を賜ったものと判断される。息子・盛高にも貞時の子・高時から一字を拝領した形跡が見られる。
尚、長貞については『尊卑分脈』等系図類以外の史料上では確認できず、その生涯・活動については不明である。
脚注
*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション および 細川重男「秋田城介安達時顕-得宗外戚家の権威と権力-」(所収:細川『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力-』第六章、日本史史料研究会、2007年)P.140~141に掲載の図 に基づき作成。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。