Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

平賀朝雅

平賀 朝雅(ひらが ともまさ、1182年~1205年)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての鎌倉幕府御家人。父は平賀義信。母は源頼朝の乳母・比企尼三女。妻は北条時政牧の方の娘。名の表記は平賀朝政とも。

 

詳細な生涯や事績については

 平賀朝雅 - Wikipedia

 平賀朝雅とは - コトバンク

などをご参照いただければと思う。ここでは「朝雅」又は「朝政(『尊卑分脈』など)の名乗りについて述べることとする。

 

近年、山本みなみの研究*1で明かされたこととして、北酒出本「源氏系図」によれば朝雅の享年は24で、没年(1205年:『吾妻鏡』・『明月記』・『愚管抄』・『尊卑分脈』など)*2から逆算すると寿永元(1182)年生まれとなるほか、『愚管抄』によると源頼朝の猶子であったといい、『諸家系図纂』所収「吉見系図」の源範頼(頼朝の異母弟)の項には雅が頼から「」の一字を給わったという記述が見られる。

【史料A】『愚管抄』(巻第六:順徳の段)より*3

……時正〔ママ、(北条)時政〕ワカキ妻(=牧の方)ヲ設ケテ、ソレガ腹ニ子共設ケ、ムスメ多クモチタリケリ。コノ妻ハ大舎人允宗親ト云ケル者ノムスメ也。セウトゝテ大岡判官時親トテ五位尉ニナリテ有キ。其宗親頼盛入道ガモトニ多年ツカイテ(仕えて)駿河国ノ大岡ノ牧ト云所ヲシラセケリ(知/領(し)らせけり=治めた)。武者ニモアラズ、カゝル物ノ中ニカゝル果報ノ出クルフシギノ事也。其子(=北条政範ヲバ京ニノボセテ馬助ニナシナドシテ有ケル。程ナク死ニケリ。ムスメノ嫡女ニハトモマサトテ源氏ニテ有ケルハコレ義(惟義)ガ弟ニヤ。頼朝ガ猶子ト(と)キコユル(聞こゆる)。コノ友正〔ママ、朝雅〕ヲバ京ヘノボセテ院ニ参ラセテ御笠懸ノ折モ参リナンドシテツカハセケリ。……

 

【史料B】『諸家系図纂』所収「吉見系図」範頼の注記より一部抜粋*4

……比企禅尼……三女伊豆伊藤九郎祐清〔ママ〕妻也、……頼朝天下安治之後、聟三人之内、伊藤助清〔ママ〕平家討死、其妻頼朝之一門平賀義信給ハル、其腹之子朝雅頼朝一字給北条時政聟トナル、……

安達盛長比企尼の長女・丹後内侍の娘が範頼の妻であった関係で、比企尼の次女・三女についての記述も書かれている。またこの注記(以下省略部分)によると、範頼が誅殺された際、比企尼が曾孫である範頼遺児2名(範円源昭)の助命嘆願を行ったといい、範円の子孫が吉見氏になったと伝える。

頼朝が征夷大将軍となった1192年頃に朝雅は元服の適齢である10代前半を迎えたことになるから、猶父である将軍・頼朝が元服時の烏帽子親を務め、「」の偏諱を与えたと考えて良いだろう。

 

尊卑分脈*5によると、朝政(朝雅)には妻の時政娘との間に嫡男の平賀朝経(四郎二郎)がいたといい、朝雅の「朝」字が子・朝経、孫・朝村と、通字として継承されたことが窺える。尚、朝村の子である貞経貞義兄弟は、得宗専制が強まる状況下で9代執権・北条貞時偏諱を受けた形跡が見られる。

 

脚注