Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

平賀貞義

平賀 貞義(ひらが さだよし、1294年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代後期の武将、御家人平賀朝村の次男。

 

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こちら▲の記事で紹介の通り、『尊卑分脈*1(以下『分脈』と略記)によると、新羅三郎義光流で源氏門葉として源頼朝に重用された平賀義信の次男・朝政(=平賀朝雅の曾孫で、平賀貞経の弟である。

 

朝政(朝雅)は猶父でもあった頼朝から「朝」の偏諱を受けたとみられ、子・朝経、孫・朝村とこの字を代々継承していったが、朝村の息子は経、義と名乗っている。これは得宗北条(9代執権在職:1284~1301年、1311年逝去)*2から偏諱を受けたためであろう。

このことを裏付けるものとして、上記記事では『分脈』の兄・貞経の傍注に「城十郎時景(母が安達時景の娘)とあることから、その生年を1293年頃と推定した。『分脈』では貞義はその弟として書かれており、さほど年齢の離れていない兄弟であったと考えて良いだろう。祖先「」の4代で継承された「」の字を使用したものと見受けられる。

 

「楠木合戦注文」には、正慶2(1333)年初頭、楠木正成を討伐する幕府軍に動員された新田義貞*3の指揮する軍中に「新田一族、里見一族、豊島一族、平賀武蔵二郎跡、飽間一族、薗田淡路入道跡」とあって*4、武蔵守に補任された平賀義信平賀朝雅の子孫が御家人として鎌倉時代末期まで存続したことが確認できる*5が、貞義については史料上でその活動は確認できず不詳である。

 

脚注