平賀貞義
平賀 貞義(ひらが さだよし、1294年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。平賀朝村の次男。
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こちら▲の記事で紹介の通り、『尊卑分脈』*1(以下『分脈』と略記)によると、新羅三郎義光流で源氏門葉として源頼朝に重用された平賀義信の次男・朝政(=平賀朝雅)の曾孫で、平賀貞経の弟である。
朝政(朝雅)は猶父でもあった頼朝から「朝」の偏諱を受けたとみられ、子・朝経、孫・朝村とこの字を代々継承していったが、朝村の息子は貞経、貞義と名乗っている。これは得宗・北条貞時(9代執権在職:1284~1301年、1311年逝去)*2から偏諱を受けたためであろう。
このことを裏付けるものとして、上記記事では『分脈』の兄・貞経の傍注に「母城十郎時景女」(母が安達時景の娘)とあることから、その生年を1293年頃と推定した。『分脈』では貞義はその弟として書かれており、さほど年齢の離れていない兄弟であったと考えて良いだろう。祖先「頼義―義光―盛義―義信」の4代で継承された「義」の字を使用したものと見受けられる。
「楠木合戦注文」には、正慶2(1333)年初頭、楠木正成を討伐する幕府軍に動員された新田義貞*3の指揮する軍中に「新田一族、里見一族、豊島一族、平賀武蔵二郎跡、飽間一族、薗田淡路入道跡」とあって*4、武蔵守に補任された平賀義信、平賀朝雅の子孫が御家人として鎌倉時代末期まで存続したことが確認できる*5が、貞義については史料上でその活動は確認できず不詳である。
脚注
*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*3:周知の通り後に倒幕側に転ずるが、この頃はまだ幕府方であった。
*4:正慶乱離志 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。
*5:平賀氏 - Wikipedia より。