平賀貞経
平賀 貞経(ひらが さだつね、1293年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。平賀朝村の嫡男。
『尊卑分脈』*1(以下『分脈』と略記)によると、新羅三郎義光流で源氏門葉として源頼朝に重用された平賀義信の次男・平賀朝政の曾孫である。その注記には頼朝の岳父でもある北条時政の娘婿となり、いわゆる牧氏事件で討伐されたことが書かれており、その内容や名前の読みの共通から、朝政は平賀朝雅のことを指していると考えて良い。
『分脈』によると、朝政(朝雅)には妻の時政娘との間に嫡男の平賀朝経(四郎二郎)があったという。朝雅の「朝」は猶父でもあった頼朝の偏諱とみられ、子・朝経、孫・朝村と通字として継承されたことが窺える。
しかし、朝村の息子は貞経、貞義と名乗っている。結論から言えば、これは得宗・北条貞時(9代執権在職:1284~1301年、1311年逝去)*2から偏諱を受けたためであろう。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
『分脈』には貞経の傍注に「母城十郎時景女」とあり、安達時景の娘を母親としていたことが分かる。時景については上記記事にて1253年生まれと推定しており、外祖父―外孫の年齢差を考慮すれば、(各親子間の年齢差を20とした場合)貞経の生年は早くとも1293年頃と推定可能である。多少前後はするだろうが、通常10代前半で行われる元服当時の得宗が北条貞時であった可能性はほぼ確実で、その「貞」の偏諱を許されたものと判断される。「経」は言うまでもなく祖父・朝経の1字を取ったものであろう。
「楠木合戦注文」には、正慶2(1333)年初頭、楠木正成を討伐する幕府軍に動員された新田義貞*3の指揮する軍中に「新田一族、里見一族、豊島一族、平賀武蔵二郎跡、飽間一族、薗田淡路入道跡」とあって*4、武蔵守に補任された平賀義信、平賀朝雅の子孫が御家人として鎌倉時代末期まで存続したことが確認できる*5が、貞経については史料上でその活動は確認できず不詳である。
脚注
*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*3:周知の通り後に倒幕側に転ずるが、この頃はまだ幕府方であった。
*4:正慶乱離志 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。
*5:平賀氏 - Wikipedia より。