Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

諏訪盛頼

諏訪 盛頼(すわ もりより、1233年頃?~没年不詳(1263年以後))は、鎌倉時代中期の武将。北条氏得宗家被官である御内人諏訪盛重の4男。主な通称および官途は 四郎(兵衛四郎)、兵衛尉、左衛門尉。

 

▲【系図α】『尊卑分脈』より、諏訪氏系図*1

吾妻鏡』を見ると、正月行事にて、椀飯の際に馬引きを担当したり、御的始の儀で射手を務めたりしたことが下記の記事にて確認できる*2。「兵衛四郎」は兵衛尉であった盛重の「四郎(4男)」として相応しい呼称であるから【系図α】とも辻褄が合う。

 建長2(1250)年1月1日条「諏方兵衛四郎盛頼

建長3(1251)年1月8日条「諏方兵衛四郎

 同月10日条「諏方兵衛四郎盛頼

 ★この間(1252年か?)に兵衛尉任官か。

建長6(1254)年1月4日条「諏方四郎兵衛尉

正嘉2(1258)年1月6日条「諏方四郎兵衛尉

弘長元(1261)年1月1日条「諏方四郎兵衛尉

 

加えて、「諏方四郎」の仮名が共通すること、【系図α】で盛頼の注記に「左衛門尉」とあることから、弘長3(1263)年1月1日条の「諏方四郎左衛門尉」も1261~62年の間に左衛門尉に昇進後の盛頼に比定されよう。

初出(1250年元旦)の段階で「盛頼」と名乗っていることが確認できるので、前年(1249年)までに元服を済ませていたと判断できる。1252~53年の間に兵衛尉に任官したことになるが、1251年の時点で同じく無官であった兄・盛経が1253年正月の時点で先に左衛門尉に任官したことが確認できるので、1252年に兄弟揃って官職を得た可能性が高い。

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ここで「」の名に着目すると、「盛」が父・盛重から継承した1字であるのに対し、「」は活動当時の執権・北条時偏諱を許されていることが窺える。初出時に無官であったことを考えると時頼を烏帽子親として元服したと考えて良いのではないか。父の代から得宗被官化していた身分で、時頼の烏帽子親でもある4代将軍・藤原(九条)頼経から「頼」の1字を賜ったとは考え難い。

よって盛頼の元服は時頼が5代執権に就いた寛元4(1246)年*3以後ということになり、同年に元服の適齢である10代前半であったことになる。

他氏の例を踏まえると、1252年頃に兵衛尉に任官した当時は若くとも20歳程度であるのが相応しい。仮に20歳とすると、1246年当時14歳と元服の適齢になる。元服・任官各々の適齢を考えるとこれより引き上げられても1~2歳が限界であろう。或いは兵衛尉任官を18~19歳位に引き下げても良いかもしれない。いずれにせよ、逆算すれば1233年頃の生まれと推定可能である。

 

尚、1263年以後は史料上で確認ができず、不詳である。

 

(参考ページ)

 諏訪盛頼 - Wikipedia

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.426~427 より引用。但し注記のうち「出家真性」は兄・盛経の項にあるべきものの誤りである。

*2:吾妻鏡』での登場箇所は、御家人制研究会(代表:安田元久)『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)P.297「盛頼 諏訪」の項 に拠った。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。