Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

塩谷泰朝

塩谷 泰朝(しおのや やすとも、1214年~1279年、旧字:鹽谷 ―)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将、御家人。宇都宮氏一門・塩谷氏第3代当主。通称 および 官途は四郎(周防四郎)、兵衛尉、左衛門尉。父は第2代当主・塩谷朝親(『尊卑分脈』では親朝)

 

吾妻鏡人名索引』*1によると、『吾妻鏡仁治元(1240)年3月12日条塩谷四郎兵衛尉」を初見とし、この人物は次いで正嘉元(1257)年8月15日条に「周防四郎兵衛尉泰朝」、同年10月1日条に「塩谷周防四郎兵衛尉泰朝」と出てくることによって、塩谷泰朝と分かる。以降、次の箇所で登場する。

正嘉元年12月24日条塩谷周防四郎兵衛尉追加、

正嘉2(1258)年6月17日条塩屋〔ママ〕周防兵衛尉

弘長3(1263)年8月8日条周防四郎左衛門尉」・9日条周防四郎左衛門尉泰朝

 

ちなみに「周防」というのは父の官途=周防守に因んだものであり、当時のそれに相応しい人物は、塩谷朝親である*2

『秋田塩谷系譜』秋田県史資料室所蔵)によると、泰朝の生年は建保2(1214)年であったといい*3、初出の1240年当時27歳(数え年)兵衛尉に任官済みであったことになるが、宇都宮氏一族は20代のうちに最初の官職を得る傾向にあった*4ので特に問題なかろう。

『秋田塩谷系譜』には父・朝親が建長2(1250)年10月14日に57歳で没したとの記載があるようで、逆算すると建久5(1194)年生まれとなるが、没年月日については『吾妻鏡』でも裏付けられ、子・泰朝との年齢差でも現実的で矛盾はない。

<宇都宮氏略系図

         ┌ 頼業(1195-)=泰親(1220頃?-)

 業綱頼綱(1172-)―泰綱(1203-)

   └ 朝業(1174-)―朝親(1194-)―泰朝(1214-)

*塩谷氏は『秋田塩谷系譜』に基づいた各Wikipedia、それ以外の人物は『下野国誌』9 所収の「宇都宮系図」・「横田系図」に拠って生年を掲げたが、こうして照らし合わせてみると上手く辻褄が合っていると言えよう。尚、『下野国誌』には「塩谷系図」も載せられており、生没年に関する情報はあまり記載されていないが、系譜や通称・官途といった注記では『尊卑分脈』や『秋田塩谷系譜』と十分一致している。

前述の生年に基づくと、北条鎌倉幕府3代目の執権として継いだ元仁元(1224)年*5当時、は11歳と、元服には十分適している年齢に達していたことになる。両者は「」の字を共有しており、烏帽子親子関係にあったと判断される。すなわち、泰朝は執権となったばかりの泰時の加冠により元服し、その一字を賜ったと考えて良いだろう。

 

脚注

*1:御家人制研究会(代表:安田元久)『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)P.331「泰朝 塩谷」の項。

*2:吾妻鏡人名索引』P.365「朝親 塩谷(宇都宮)」の項 によると、建長2年3月1日条「周防前司入道」、同年10月14日条「前周防守従五位下藤原朝臣朝親法師卒」(逝去の記事)、同年11月11日条「故塩谷周防前司入道」・「朝親法師」の3箇所で登場。

*3:塩谷泰朝 - Wikipedia 参照。

*4:詳しくは 宇都宮泰親 - Henkipedia を参照のこと。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。