Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

三浦時連

三浦 時連(みうら ときつら、1210年頃?~1260年頃?)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将、御家人三浦(佐原)盛連の子。母は三浦義村の娘・矢部禅尼

通称および官途は 六郎、兵衛尉、左衛門尉。法名観蓮(かんれん)。歴史研究上では、佐原時連横須賀時連新宮時連と呼ばれることもある。

 

▲【系図A】『尊卑分脈』三浦氏系図*1

 

諸家の系図を集成し、南北朝時代から室町時代初期に成立した『尊卑分脈』では、平氏についての記載が簡素であるが、一部の掲載に留まっている三浦氏佐原流で時連―頼連父子が載せられており、主要な家系と認知されていたことが窺える。

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こちら▲の記事でも紹介の通り、時連は、矢部禅尼法名:禅阿)北条泰時と離縁し、佐原盛連に再嫁した後に産んだ息子の一人であるが、禅阿が泰時との間に産んだ長男・北条時氏建仁3(1203)年生まれである*2から、時連の生年は確実に同年より後となる。

そして史料における初出は『吾妻鏡』文暦元(1234)年正月1日条佐原四郎(=光連) 六郎兵衛尉」であり*3、当時兵衛尉に任官済みであったことが分かる。

その後、宝治2(1248)年正月3日条まで「遠江六郎兵衛尉」等と書かれていたものが、次いで建長2(1250)年正月1日条では「遠江次郎左衛門尉光盛 同六郎左衛門尉時連」と官職の表記が変化しており、1248~49年の間に左衛門尉に昇進したことが確認できる。尚、「遠江」というのは、光盛や時連の父である盛連遠江守であったことにより付されたものである。

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ここで外祖父・三浦義村の例が参考になるだろう。建久元(1190)年に(右)兵衛尉、建暦元(1211)年に左衛門尉となっている*4が、近年の研究で義村の生年が仁安3(1168)年と推定されており*5、これに従うと各々23歳、44歳での任官であったことになる。

時連についても、1210年頃の生まれとすれば、初見時20代、左衛門尉任官時40代であったことになる。よって、生年は1210年頃であったと見なして良いと思う

『会津資料叢書』巻6所収「葦名系図」を見ると、同母の長兄・光盛について文永5(1268)年に65歳で卒去した旨の記載があり*6、逆算すると1204年生まれとなる。時氏を産んだ翌年に矢部禅尼が光盛を生んだことになるが、『佐野本三浦系図』では1206年生まれの三浦泰村継室(泰時女子)の母親であったと伝えており、整合性に疑問が残る。ただ、この光盛より少し後に生まれたという一つの証左にはなるので、参考までに掲げておく。

 

元服は通常10代前半で行われることが多く、「」の名は元仁元(1224)年から3代執権となった*7を烏帽子親とし、その偏諱を受けたものと推測される。前述の通り、泰時は実母の元夫にあたるから、この縁で烏帽子親子関係が結ばれたのであろう。

 

以後、北条氏得宗家と深く結びついており、1247年の宝治合戦では惣領の叔父・三浦泰村(義村の子)らには属さずに生き残り、康元元(1256)年11月23日条には、この日の相州(=相模守・北条時頼)出家に際し、「……遠江守光盛、法名〔※法名無記載〕三浦介盛時、法名〔※法名「浄蓮」無記載〕大夫判官時連、法名観蓮、以上三浦、各兄弟、……」もこれに追随したとある。「大夫判官」とは、検非違使庁(六位相当)でありながら五位に任ぜられた者の呼称であり*8、時連の場合はこの当時も左衛門で五位に叙せられていたためにそう呼ばれていたと考えられる。【図A】での「六郎判官」表記が正しいことも証明され、左衛門尉が出家前の最終官途であったことが分かる。

 

以後、後継者の三浦頼連が幕府に出仕しており、時連の活動は確認できないため、出家よりさほど経たない時期に亡くなったのではないかと推測される。

 

(参考ページ)

 佐原時連とは - コトバンク

 武家家伝_横須賀氏

 

脚注