津軽氏と近衛氏
江戸時代の話である。
天明2(1782)年、陸奥国黒石領主・津軽著高の長男は、慣例により本家の弘前藩7代藩主・津軽信寧より「寧」の偏諱を受け、寧親(やすちか)と名乗った。寛政3(1791)年に信寧の長男で8代藩主となった信明が30歳の若さで急死すると、寧親は黒石領を長男・典暁に任せて弘前藩の9代藩主に転じた。
しかし、典暁も18歳前後の若さで早世し、その跡には、縁戚関係にあった上総国久留里藩主の黒田家から津軽親足(ちかたり)が迎えられ、弘前藩主・寧親の偏諱「親」を受けた。
ここで着目してみたいのが、親足の「足」の方である。この字は「たり」と読まれており*1、最初三河吉田藩主の松平氏から養子に迎えていた津軽邦足(くにたり、のちの津軽順承) および 実の息子・津軽正足(まさたり、のちの津軽承保)にも継承されたようだが、結論から言うと、これは中臣(藤原)鎌足に由来するものと思われる。
津軽氏は元々、甲斐源氏流南部氏から分かれたとされるが、「愛宕山教学院祐海書牒」によると、大浦(津軽)為信の代に戦功に対する褒賞として藤原氏を名乗ることが許され、慶長5(1600)年には朝廷からも口宣を通じて藤原姓の名乗りを認可されていた。それもあって、寛永18(1641)年、3代藩主・津軽信義(為信の孫で4代・信政の父)は『寛永諸家系図伝』編纂の際に、藤原北家の嫡流である近衛家*2に対して津軽家系図への認証を求め、近衛家当主近衛信尋から為信の祖父・大浦政信が近衛尚通(信尋の高祖父)の猶子であると認められた。そのため、津軽家の公称系図では、政信が尚通と大浦光信の長女・阿久の間にできた子として、以来本姓が源氏(清和源氏)から藤原氏に変わったということになっている。
上の系図で明らかであるように、弘前藩主を世襲した津軽氏嫡流では、分家や他家からの養子を除いては、原則「信(のぶ)」を通字としていた。この字は恐らく、本来の祖先と仰ぐ源頼信に由来し、南部氏でも用いられていたもので、藤原に改姓後も使用していた。勿論改姓したからといって、前述の通り、系図上でも政信以降は女系を介しての清和源氏の子孫ということに変わりはないから、源氏由来の「信」を使ってもおかしくはないが、もしかすると「近衛尚通の落胤・大浦政信以来の"信"」という認識で、子孫代々に伝わっていたのかもしれない。
明治期近衛家の「麿」字について
明治時代に入って、旧・弘前藩第12代藩主・津軽承昭のあとは、次男・津軽楢麿(ならまろ)が分家し、近衛家から迎えた養子の津軽英麿(ふさまろ)が13代当主となった。前節で紹介の通り、津軽家は近衛家を本家筋と仰いでおり、英麿は承昭の夫人・尹子の甥であった。
ところで、楢麿・英麿の両名にある「麿(まろ)」は、津軽氏でこの字が用いられた前例はなく、明治時代になって突如現れた形だが、一体どこからきたものなのだろう?単に好きな名前を付けたという可能性もあるかもしれないが、この点に注目して一つの考察を思いついたので、以下本節で述べたいと思う。
そもそも英麿は近衛忠房(尹子の兄)の次男であったが、兄・篤麿も同字を有しており、篤麿の息子たち(文麿・秀麿・直麿・忠麿)にも付けられていた。それまでの近衛家当主の名には、祖先の藤原摂関家や以前の当主にちなんだ字が用いられており、直近の「忠煕―忠房」親子でさえ、恐らくは藤原忠通由来の「忠」を通字のようにして使っていた(忠房の「房」は、近衛家でも前例はあったが、元々は藤原房前由来であろう)にもかかわらず、明治時代の篤麿・英麿兄弟になって、父・忠房の字を用いずに突如現れた「麿」はどこからきているのだろうか?
筆者は、これも祖先の藤原内麿から取ったものではないかと推測する。
元々「麿」は「麻呂」2文字を1つにまとめた和製の合字であり*3、内麿も今日の歴史の教材等で「藤原内麻呂」と表記されることが多い*4が、例えば代表的な系図集の『尊卑分脈』を見ると、表記は「内麿」である。ちなみにこれは内麿に限ったことではなく、祖父・房前の兄弟の武智麿(藤原南家祖)や麿(藤原京家祖)など、現代「麻呂」と表記されるようなものは「麿」で統一されている*5。
『尊卑分脈』は、近衛家ひいては津軽氏 が参照した系図の一つであろうから、近衛篤麿・英麿兄弟名づけの際に、近衛家で前例がなかった内麿の「麿」を "復活" させたものと推測しておきたい*6。尚、兄弟間で同じ字を共有する「系字」もかつての藤原摂関家を想起させるものである*7。
そして、津軽承昭が英麿(1872-)を養子に迎えた時期(生まれて直ちに引き取ったのか)は不明であるが、実子・楢麿(1878-)*8の命名に際しても、形式的ではあるが津軽氏が祖先と仰ぐ藤原氏、その一人・内麿を何となく認識し、「麿」の系字で揃えようという意図があったのではないかと思われる。近衛・津軽両家ともそれに関する公式な記録は特に無く、あくまで推論としておくが、そう思わざるを得ないような名付け方と言えよう。
祖先にあやかった名付け
以上のように、藤原に改姓してからの津軽氏が、中臣鎌足や藤原内麻呂(内麿)にまで遡って名字(名前の字)を求め、為信以降も「藤原を祖とする近衛家の分家である」という認識が子孫代々にも伝わっていた様子が窺える。
このような事例は、近衛・津軽両家に限らず、また時代にも関係なく、多くの家で確認される。
例えば、同じく藤原氏から出た宇都宮氏から2名を挙げてみたい。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
まず、宇都宮高房は、鎌倉幕府が滅んだ翌年、建武元(1334)年10月の史料上で「宇都宮常陸前司冬綱」と変わっており、北条高時の偏諱と思しき「高」字を棄てて改名したようである。そして、その後の観応の擾乱期に足利直冬に従っていたことから「冬綱」がその1字を受けたものとする見解もあったが、実際は先祖と仰ぐ藤原冬嗣から取ったものと判断される。
次いで、宇都宮等綱も特徴的な名前と言えよう。「等綱」の読み方については、近年、杉山一弥氏が『奥州余目記録』に記載の大崎氏書札礼の説明部分の中で宇都宮氏当主を「(藤原)朝綱」と書かれた部分があるとして、「ともつな」だったのではないかと説かれているが、その読みが分からないくらい、宇都宮氏で「等」が使われた前例は無かった。しかもそれまで「氏綱―基綱―満綱=持綱」と鎌倉公方・足利氏(尊氏―基氏―氏満--持氏)から代々偏諱を賜っていたが、持綱が持氏と対立する中で横死したことで、鎌倉公方家と疎遠になっていた中での命名であった。
ただ、「等」についても突如好きな字を考えたというよりは、祖先にまで遡って、藤原不比等に由来するのではないかと見ている。その読みに従って「とつな」という名前がしっくりこなかったからか、読み方は多少変えてはいるが、そのようなケースは歴史上少なからず見られる*9ので、そのように推測しておきたい。
備考
本稿に関連して、同じくはてなブログで興味深い記事を見かけたので紹介しておく。
戦国時代の武将であった細川清(のちの氏綱)・細川和匡(のちの藤賢)兄弟の名が、かつて南北朝時代に活躍した細川和氏・細川清氏親子にあやかったのではないかと説かれており、本稿のように祖先に名字を求めたケースの一つになるだろう。
細川氏一門では、氏綱の養父・細川高国など、祖先・源義国由来と思しき「国」字を持つ者も多く見られる。
脚注
*1:津軽親足(つがる ちかたり)とは? 意味や使い方 - コトバンク、『新編弘前市史 通史編2』、一般社団法人黒石観光協会 » 黒石の歴史 など。
*2:近衛家(このえけ)とは? 意味や使い方 - コトバンク より。
*3:麿 | 漢字一字 | 漢字ペディア。合字 - Wikipedia #表意文字の合字。麻呂(マロ)とは? 意味や使い方 - コトバンク。
*4:例えば、山川出版社刊行の高校日本史Bの教科書や用語集では、内麿(内麻呂)の扱いはないが、その他にも藤原武智麻呂・藤原麻呂兄弟、藤原仲麻呂(恵美押勝)、ひいては他家でも橘奈良麻呂や和気清麻呂といったように、奈良時代の人物は「麻呂」表記となっている。但し、昭和時代の近衛文麿首相はその例外である。
*5:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション などを参照のこと。
*6:ちなみに内麿の「内」の方は、近衛内前(忠房の高祖父/基前の祖父)の前例があった。他家では同じく五摂家の一つ、一条家で多く見られ、内実・内経父子、内嗣(内経の孫で早世)、内基、途中枝分かれした土佐一条氏でも内政の例がある。
*7:元々は唐風の文化に因む「系字」については、水野智之『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』〈歴史文化ライブラリー388〉(吉川弘文館、2014年)P.3・22を、藤原氏における命名については同書 P.25~26を参照のこと。
*8:弘前津軽氏(分家) - Reichsarchiv ~世界帝王事典~ より。
*9:幾つか思いつく限りで挙げてみよう。
同じ藤原氏後裔の例だと、註6で掲げた一条内政の「内」は、宗家・一条内基(うちもと)からの偏諱とされる(→ 東近 伸「キリシタン史料等から見た四万十川(渡川)合戦と一条兼定の動向」〈所収:『土佐史談』284号、高知・土佐史談会、2023年〉P.4)が「うちまさ」の他に「ただまさ」とも読まれており(→ 一条内政(いちじょう ただまさ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)、鷹司家祖・兼平の「平」は藤原忠平に由来と思われ、以後の当主にも「平」字を持つ者が散見されるが、昭和時代の当主・鷹司平通の名の読み方は「としみち」であったという(→ 鷹司平通(タカツカサ トシミチ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)。
室町幕府第2代将軍・足利義詮(よしあきら)の在職期間には、その偏諱と思しき「詮」の字を持つ人物が少なからず見られるが、その読みは「あき」・「のり」とされることが多い。