Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

【コラム】織田信長の偏諱

上洛して足利義昭を15代将軍に推戴し、やがて対立した義昭を京から追放して権力者となった、尾張戦国大名織田信長。『信長公記』や『蜷川家文書』には「御父織田弾正忠殿」と宛てた義昭の感状の案文(写し)が掲載されており、水野智之は「御父」については要検討としつつも、公家衆に対する偏諱(一字付与)や猶子関係に関する室町足利将軍の権限を継承していたと説かれている*1。信長がそのような権力者の立場にあったことは認められるところであり、偏諱の授与については公家以外に対しても行っていたことが確認される。

以下、織田信長偏諱授与の対象者とみられる人物を紹介していきたいと思う。 

本能寺の変”がどんな場面になるのか、自分自身も楽しみ」染谷将太(織田信長)【「麒麟がくる」インタビュー】 | エンタメOVO(オーヴォ)

▲2020年度大河ドラマ麒麟がくる』での織田信長

 

史料類で確認できるもの

徳川(幼名: 竹千代、通称: 岡崎三郎)

永禄10(1567)年5月27日、信長の意向によりその娘(=徳姫、『大三河志』では徳子と表記)と結婚し*2、元亀元(1570)年8月26日に元服を遂げた際に舅・長からの「」と父・家の1字によって「」を名乗ったと伝えられる*3

*『松平記』と『当代記』では元服当時13歳とするが、永禄10年の婚姻時に9歳であるのと計算が合わない。『大日本史料』では「元亀元年」を同2年の誤りとするが、『家忠日記』や『浜松御在城記』でも「二」を「元」と誤記したとは考え難い。『浜松御在城記』で永禄2(1559)年誕生、元亀元年に「御十二 ニテ御元服」と記すことからして、むしろ「十三」が「十二」の誤記もしくは誤写・誤読ではないかと思われる。

 

長宗我部

『蠹簡集』『土佐物語』によると、長宗我部元親は、惟任日向守こと明智光秀を通じて、信長に息子・弥三郎に対する偏諱を申請しており、天正3年10月26日、長が自らこれに応じる形で「」の名を贈る旨の書状が残されている*4ほか、『長元記』・『土佐軍記』・『元親一代記』などにもその旨が記録されている*5。『土佐物語』では信長の烏帽子子になること(=信長に烏帽子親・加冠を務めてもらうこと)まで願い出たという*6。この当時弥三郎(信親)は数え11歳であった。

但し、この時はあくまで契約を交わしただけだったようであり、近年の研究においては、実際の一字拝領は天正6(1578)年であったと考えられている。その根拠として、藤田達生によると、2013年に発見された『石谷家文書』林原美術館所蔵)に所収の同年12月16日付「石谷頼辰長宗我部元親書状」の中で、信親が一字を与えられた際に信長は荒木村重を攻めていたと書かれており*7、また同年10月26日付の元親に与えた信長の朱印状から、信長が烏帽子親となり、元親の子に名前の一文字を与えて「信親」とすることを許したと説かれている*8

 

水野氏の紹介によると、他にも親交のあった一部の公家にも「信」字を与えていたことが確認される。

 

近衛(のち輔・尹)

永禄8(1565)年、近衛前久の嫡男として生まれる。幼名は明丸。天正5(1577)年閏7月12日、二条屋敷において織田信長の加冠により元服した*9際にその偏諱「信」を受けたとみられる(「基」は家祖の近衛基実・基通父子、鎌倉時代中期の基平・家基父子で用いられた前例がある)。のち天正10(1582)年に「信輔*10、次いで慶長2(1597)年6月に「信尹*11と改名した。

 

鷹司

近衛信基と同い年。二条昭実・義演の実弟二条晴良の子)にあたり、天正7(1579)年、織田信長の勧めで鷹司忠冬以後断絶していた鷹司家を継いで再興。11月21日には忠冬の跡を受けて正五位下に叙され、同日(『多聞院日記』では翌22日)元服したと伝えられており*12、同時に信長の偏諱「信」を賜ったと思われる(「房」は実の祖父・二条尹房に由来か。元々は藤原房前藤原良房といった先祖が用いたほか、鷹司家でも鷹司房平の例がある)

 

 

その他偏諱授与者とみられる者 

一等史料で確認できるものは以上であるが、それ以外に信長の偏諱を受けたと考えられる人物について検証を試みたい。

 

<江戸期の史料・系図に記載のある人物>

香川:初名は香川之景。当初は讃岐守護の細川京兆家や三好氏に従っており、「之」もいずれかから受けたものかもしれない。『南海通記』によると、信長が上洛して中央に政権を樹立すると、「西讃岐 香川肥前守元景」も信長に臣従し、「長公ヨリ御諱ノ一字ヲ被下(下され)香川景ト改名」したという*13。但し実際の史料から「元景」は之景の誤りで、その改名時期は天正4(1576)年とされている*14

 

奥平:『寛政重修諸家譜』に初名は定昌(さだまさ)であったが、後に「織田右府」の「諱の字」を受けたとの記述が見られる*15

 

金森:『寛政重修諸家譜』での注記に「初可近(ありちか)」、「……織田右府につかへ(=仕え)諱の字をあたへられ(=与えられ)長近と称し、……」と書かれている*16

 

*「右府」とは右大臣の唐名であり*17、「織田右府」は一時右大臣であった信長を指す呼称である*18

 

 

<信長の弟や親戚>

織田(有楽斎):天文16(1547)年生まれ。まだ幼い頃に父・信秀が亡くなり、跡を継いだ13歳年長の兄・信長が父親代わりであったことは想像に難くない。「信」は織田弾正忠家の通字であったため、「長」の字が与えられたのであろう。

 

織田(津田長利):兄・長益に同じく信長の偏諱「長」を受けたとみられる。

 

織田:織田藤左衛門家の当主。織田寛故の子。信張の代から「信」を代々使用するようになっており、織田弾正忠家から受けたものと考えられている。

 

<その他>

浅井:『東浅井郡志』の解説によれば、当初は臣従していた六角承禎の俗名「義」の1字を受け「(かたまさ)」と名乗っていたが、六角氏から離れた後は「」と改名し、その「」は織田信偏諱であろうとしている*19。同書によると、永禄4(1561)年卯月(4月)25日付の書状(『竹生島文書』)までは「備前守賢政」と署名していた*20ものが、同年6月20日付の書状(『垣見文書』)以降では「備前守長政」と署名しており*21、改名はこの間であったとみられる。野良田の戦いで六角氏相手に勝利した翌年となり、この頃同時に信長に接近しつつあったとみられる。後に信長の妹・お市の方を妻に迎えたが、やがて信長から離れて敵対し、自害に追い込まれた。

 

黒田:永禄11(1568)年、黒田孝高(官兵衛)の嫡男として生まれる。幼名は松寿丸。有岡城の戦い(1578年)を経て、天正9(1581)年頃に元服したとされる。本能寺の変の前年で信長は存命であり「長」の偏諱を賜ったとみられる。

*孝高の「高」に同じく、「政」の字は高祖父(孝高の曽祖父)にあたる黒田高政から取ったものであろう。長政の長男は2代将軍・徳川秀忠偏諱を受けて忠長と名乗り*22、次男の長興は当初、祖父・孝高と父・長政の各々1字で「孝政(よしまさ)」と名乗っていた。

浅井長政黒田長政の「長」については、石瀧豊美氏も信長の偏諱ではないかと説かれている*23

 

 斎藤斎藤道三(利政)の末子、すなわち信長の義弟とされる斎藤利治の別名として伝わる。 但し実際の史料である『竜福寺文書』や『宇津江文書』で確認できる諱は「利治」のみであり、「長龍」を名乗ったかどうかは定かになっていない。

 

 斎藤斎藤斎藤:道三・利治らの美濃斎藤氏に同じく藤原北家利仁流を称する越中斎藤氏・斎藤利基の息子たち。特に斎藤信利斎藤信吉については、上杉謙信の死後いち早く信長に誼を通じ、その働きが評価されて「信」の偏諱が下賜されたという(出典は『寛政重修諸家譜』か)

 

土橋朝倉義景の旧臣。初め朝倉景鏡。「景鏡」署名の書状も残されている*24が、天正元年8月の一乗谷城の戦いで従兄弟で主君の義景を自刃に追い込んで信長に降伏した後、「土橋」の苗字を与えられると同時に改名したとされる。3月20日付で「信鏡」と署名して発給した書状や、「信鏡」と書かれた4月14日付の信長の書状については、翌2(1574)年のものとされる*25。4月14日は景鏡(信鏡)が越前一向一揆の標的となって戦死した日である。

 

桂田朝倉義景の旧臣。初め前波吉継。

 

富田朝倉義景の若い旧臣であったが、吉継に続いて織田方に寝返った。

 

別所*26:永禄元(1558)年生まれとされ、天正3(1575)年10月に信長に謁見している。

 

細川:幼名は聡明丸。永禄元(1558)年2月3日、摂津芥川城において元服。加冠は配下の三好長慶が務めたが、この時から暫くは実名なしで「六郎」とのみ称したようである*27。元亀2(1571)年12月17日に将軍・足利義偏諱を与えられて「」と名乗る*28が、『前田氏所蔵文書』所収の「香川中務大輔(=信景)」宛ての書状4通のうち、3月3日付の2通では「*29、7月17日・11月9日付の書状では「*30と署名しており、これらは天正2(1574)年のものと考えられている*31。また昭元(信良)は信長やお市の方らの妹であるお犬の方と結婚し、その間に嫡男・元勝(頼範)が生まれている。

 

三好:のちの豊臣秀次天正11(1583)年3月2日、羽柴秀吉の弟・秀長、甥・秀次の軍勢が伊勢国峯城を攻めたことを伝える史料で、『北畠物語』では「秀吉の舎弟 羽柴美濃守秀長(羽柴)孫七郎秀次」と記す*32のに対し、『勢陽雑記』では「羽柴小一郎(=秀長)三好孫七郎……」、『遠藤家譜』慶隆の注記の中では「三好孫三郎〔ママ〕秀次」と記されており*33、更に『上坂文書』には翌12(1584)年のものとされる6月21日付「(=羽柴姓)孫七 信吉」の署名と花押を据えた書状が収録されている*34ことから、秀次が当初「三好孫七郎信吉」を名乗っていたと考えられている。

 

森成利(蘭丸、定?)(坊丸)(力丸)(千丸、のちの忠政)森可成の息子たち。いずれも信長の家臣・近習として仕えた。森氏は源義家の7男・義隆に始まる家柄で*35、長隆の「隆」(義隆・頼隆父子が使用、長定の「定」頼定・定氏父子が使用)、長氏の「氏」(定氏―頼氏―光氏―氏清の4代で使用)はいずれも祖先から取ったものとみられる*36

 

脚注

*1:水野智之『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』〈歴史文化ライブラリー388〉(吉川弘文館、2014年)P.185~186。

*2:『史料稿本』正親町天皇紀・永禄10年5~6月 P.33~34

*3:『大日本史料』10-6 P.777778

*4:『土佐国蠹簡集』4 P.22。『東大史料』天正3年10月 P.202土佐物語. 1 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*5:『東大史料』天正3年10月 P.206207209『大日本史料』11-2 P.378南海通記 : 史料叢書 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*6:『東大史料』天正3年10月 P.209土佐物語. 1 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*7:藤田達生本能寺の変研究の新段階 ー『石谷家文書』の発見ー」(所収:藤田達生福島克彦 編『明智光秀』〈史料で読む戦国史③〉、八木書店古書出版部、2015年)。

*8:藤田達生本能寺の変』(講談社学術文庫、2019年)P.40。

*9:『史料稿本』正親町天皇紀・天正5年4~閏7月 P.144

*10:『大日本史料』11-3 P.113。「輔」は祖先・藤原師輔に由来か。

*11:『史料稿本』後陽成天皇紀・慶長2年6月 P.2。「尹」は師輔の長男・伊尹に由来か(近衛家は3男・兼家の後裔)。

*12:『史料稿本』正親町天皇紀・天正7年10~11月 P.36

*13:南海通記 : 史料叢書 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*14:1573年(天正 1) ~ (10K) – 香川県立図書館善通寺市デジタルミュージアム 香川信景 - 善通寺市ホームページ武家家伝_讃岐香川氏香川之景 - Wikipedia より。

*15:『大日本史料』12-17 P.919926

*16:『大日本史料』12-5 P.726

*17:右大臣 - Wikipedia右府とは - コトバンク より。

*18:織田信長 - Wikipedia #織田右府 より。

*19:東浅井郡志. 巻2 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。

*20:東浅井郡志. 巻2 - 国立国会図書館デジタルコレクション東浅井郡志. 巻4 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*21:東浅井郡志. 巻4 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*22:。のちに秀忠の子、家光の弟である徳川忠長との同名を避けて「忠政」→「忠之」(「之」については叔父である孝高の弟・直之の使用例があるが由来は不明)と改名している。

*23:石瀧豊美「まちの史跡めぐり149 来年のNHK大河ドラマ『軍師 官兵衛』Ⅱ」(『Sue Towns Magazine』コラム、福岡県須恵町、2013年)より。

*24:『大日本史料』10-22 P.33

*25:『大日本史料』10-22 P.1718

*26:宮田逸民「あかし楽歴史講座 第6回 三木城と明石」(2018年)P.1。

*27:『史料稿本』正親町天皇紀・永禄元年正~2月 P.59

*28:『大日本史料』10-7 P.178

*29:『史料稿本』正親町天皇紀・永禄元年正~2月 P.64

*30:『史料稿本』正親町天皇紀・永禄元年正~2月 P.65

*31:香川 信景|戦国日本の津々浦々 より。

*32:『大日本史料』11-3 P.745

*33:『大日本史料』11-3 P.746

*34:『大日本史料』11-7 P.530

*35:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション森氏 - Wikipedia武家家伝_森 氏 参照。

*36:森氏の系譜については前注参照。頼継の子・可光の代から突如、通字が突然「可」に変わるなどやや不自然な点があることから仮冒ではないかとする説もあるが、少なくとも森可成一家が(実際の真偽に関わらず)源義隆を先祖と仰いでいたことはこの観点から認められよう。