宇都宮高房
宇都宮 高房(うつのみや たかふさ、1297年?~1366年?)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人。豊前宇都宮氏(=城井氏)の当主で、城井高房(きい ー)とも呼ばれる。通称は弥六、官途は左衛門尉、常陸介。
『尊卑分脈』(以下『分脈』と略記)によると、宇都宮宗綱の弟・宗房の後裔にあたる宇都宮頼房(大和守)の子で「常陸介 改冬綱 次改守綱」と注記があり、のちに宇都宮冬綱(ふゆつな)、次いで宇都宮守綱(もりつな)と改名したという*1。
『紀井宇都宮系図』*2でも「頼房ノ子 宇都宮常陸介冬綱 正四位以下〔誤記?〕評定衆 法名宗閑 暦応二年三月豊前守護職 貞治五年二月三日於京都卒七十歳云々 冬綱延文五年〔四年の誤記〕八月於筑後国鰺坂(=味坂)ノ陣与官軍合戦。」とあるが、この系図は頼房の父・通房について誤った記述があるなど、情報の扱いには注意を要するという*3。
また、異説として『佐田系図』では、実は宇都宮貞綱の子、宇都宮公綱(初め高綱)の弟であるというが、同系図では高房の後継者・家綱についても公綱の子とすることから『豊津町史』上巻はこの記載について疑問を呈されている*4。
元徳元(1329)年12月には頼房の跡を継いでいたらしく、「大和弥六殿」が「大友近江入道殿(=大友貞宗入道具簡)」とともに、弥勒寺造営料について奉行を命ぜられている(『豊前小山田文書』)*5。これが史料上における初見であろう。父が薩摩守*6であった頼房が永仁7(1299)年当時「薩摩六郎左衛門尉」と呼ばれていた*7のと同様に、その後延慶2(1309)年までに大和守となって退任した「大和前司頼房」*8の子で「弥六」を称していたことが窺え、この頃までに元服を済ませていたことも分かる。
ここで「高房」の実名に着目すると、宗房以来代々の通字「房」(祖先・藤原房前に由来か)に対し、「高」は得宗・北条高時の偏諱を許されたものと見受けられる*9。後にこの字を改めている(後述参照)ことからしても、高時を烏帽子親として元服したと考えて良いだろう。『紀井宇都宮系図』での記載に従って逆算すると1297年生まれとなるが、同年生まれの足利高義や、1歳上の京極高氏(のちの道誉)の例に同じく、延慶2(1309)年に7歳で元服し*10、応長元(1311)年10月26日の父・貞時の死*11に伴い得宗家の家督を継承したばかりの高時から一字を拝領したものと推測される。
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次の2つの史料は、その後元徳3/元弘元(1331)年のものとされ、高房の左衛門尉任官が裏付けられる。
●【史料A】4月21日付「宇都宮高房宇佐宮神馬送文」(『豊前益永家文書』)*12:
*この文書の案文(控え写し)には「左衛門尉高房」の傍注に「宇都宮常陸介」とあるという*13。
●【史料B】元弘元(1331)年10月15日付「関東楠木城発向軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*14
陸奥守(大仏貞直) 河越参河入道(貞重)
小山判官(高朝) 佐々木近江入道(貞氏?)
佐々木備中前司(大原時重) 千葉太郎(胤貞)
武田三郎(政義) 小笠原彦五郎(貞宗)
諏訪祝(時継?) 高坂出羽権守(信重)
島津上総入道(貞久) 長崎四郎左衛門尉(高貞)
大和弥六左衛門尉 安保左衛門入道(道堪)
加地左衛門入道(家貞) 吉野執行
一手北 自八幡于佐良□路
武蔵右馬助(金沢貞冬) 駿河八郎
千葉介(貞胤) 長沼駿河権守(宗親)
小田人々(高知?) 佐々木源太左衛門尉(加地時秀)
伊東大和入道(祐宗) 宇佐美摂津前司(貞祐)
薩摩常陸前司(伊東祐光?) □野二郎左衛門尉
湯浅人々 和泉国軍勢
一手南西 自山崎至天王寺大路
江馬越前入道(時見?) 遠江前司
武田伊豆守 三浦若狭判官(時明)
渋谷遠江権守(重光?) 狩野彦七左衛門尉
狩野介入道(貞親) 信濃国軍勢
一手 伊賀路
足利治部大夫(高氏) 結城七郎左衛門尉(朝高)
加藤丹後入道 加藤左衛門尉
勝間田彦太郎入道 美濃軍勢
尾張軍勢
同十五日 佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
同十六日
中村弥二郎 自関東帰参
(*http://chibasi.net/kyushu11.htm より引用。( )は人物比定。)
【史料B】は、後醍醐天皇が笠置山、その皇子・護良親王が吉野、楠木正成が下赤坂城にてそれぞれ倒幕の兵を挙げた(元弘の変)ことを受け、9月初頭に幕府側が差し向けた討伐軍の名簿であり、この時高房も従軍していたことが窺える。
次いで、下記2点の史料も見ておきたい。
【史料C】(元弘)3年5月28日付「宇都宮高房執達状」(『田口文書』)*15
□〔五〕月廿五日、武蔵 〔修理〕亮英時以下□〔誅〕伐の時、舎弟□〔重〕貞、疵を被る間の事、見候いおわんぬ。仍って執達 〔件の如し〕
〔元弘〕三年五月廿八日 高房
田口孫三郎(=信連)殿
【史料D】元弘3年6月13日付「前常陸介(=高房)執達状」(『上妻文書』)*16
今年五月廿三日 綸旨、同四月廿七日御教書如此、早任被仰下旨、急速可被上洛也、仍執達如件、
元弘三年六月十三日 前常陸介
宮野四郎入道(=教心)殿
【史料C】は、書状の保存状態(虫食い等)によるものか、一部欠字が少なからずあるが、推測可能な所もあり、元弘3(1333)年5月25日に鎮西探題・北条(赤橋)英時が滅ぼされた*17直後に出されたものと分かる。従って高房は鎌倉幕府滅亡と運命を共にしなかったのであった。
【史料D】も花押の一致から「前常陸介」=高房発給の文書であることが分かり、鎌倉幕府滅亡の直前に常陸介となって退任したことが裏付けられよう。
この当時もまだ「高房」を称していたことが窺えるが、翌建武元(1334)年10月の段階で「冬綱」の名が確認できる*18。
筑前国雷山千如寺衆徒申、当山造営用途兵粮米代銭未進弐拾陸貫文事
正員宇都宮常陸前司冬綱為警固可令下向鎮西之由、被仰下之間、既令下国候畢、所詮、於件銭貨者、於国任員数可令究済候、以此旨可有御被〔披〕露候、恐惶謹言、
建武元年十月十六日 沙弥善覚「請文」
「宇都宮常陸前司冬綱」の名は翌2(1335)年2月20日付の雑訴決断所下文でも確認ができ*20、鎌倉幕府滅亡後間もなく改名し、建武政権下で鎮西(九州)現地に赴任したことが分かる。山口隼正氏が説かれる通り「高」が得宗・北条高時に通じていたが故の改名であったとみて良いだろう*21。
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その後、高房(冬綱)は足利尊氏に従ったが、観応の擾乱期に入って尊氏の庶子・足利直冬(直義の養子)が長門探題として九州に下向してくると、ほぼ一貫して直冬党として活動している。山口氏は「冬」の字が直冬に通じていたと述べられている*22が、前述の「冬綱」の初見は直冬の元服より前である*23から、直冬から与えられたものではなく、むしろ先祖と仰ぐ藤原冬嗣に由来するものであろう。但し、観応の擾乱を経た文和3(1354)年9月の段階では「守綱」に改名していたようであり*24、のちに直冬の家来と見られるのを避けるべくその1字を憚ったことは認められると思う*25。
冒頭で掲げた『紀井宇都宮系図』に従えば、暦応2(1339)年に豊前守護職に補任され、延文4(1359)年、筑後川の北方にある鯵坂(あじさか)荘(現・福岡県小郡市)に陣を敷いた少弐頼尚に従い、征西将軍・懐良親王を奉じた菊池氏ら南朝方官軍と戦った*26という。
(参考ページ)
脚注
*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 2 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*2:『太宰管内志』中巻「築城郡 - 紀井家」の条に内容の記載あり。
*3:http://miyako-museum.jp/digest/pdf/saigawa/2-3-2-4.pdf P.199。
*5:『鎌倉遺文』第39巻30803号。『豊津町史 上巻』P.627。
*6:『分脈』では(宇都宮)景房とするが、実際は宇都宮通房。
*8:延慶2年6月12日付「鎮西下知状」(『肥後佐田文書』、『鎌倉遺文』第31巻23700号)。
*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*11:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*12:『鎌倉遺文』第40巻31413号。
*13:前注同箇所。
*14:『鎌倉遺文』第41巻32135号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*15:読み下し文は http://miyako-museum.jp/digest/pdf/toyotsu/4-3-1-3.pdf P.626 より。原文は漢文体。
*16:山口隼正『南北朝期 九州守護の研究』(文献出版、1989年)P.59 より。
*17:『大日本史料』6-1 P.7~の各史料 および 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その31-赤橋英時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)を参照のこと。
*19:注16前掲山口氏著書 P.63。『南北朝遺文』九州編1 P.43 142号。
*21:注16前掲山口氏著書 P.62~63。
*22:注16前掲山口氏著書 P.62・66。
*23:直冬の生年や幼少期の活動については 足利直冬 - Wikipedia を参照のこと。
*24:『豊津町史 上巻』P.651~652。注16前掲山口氏著書 P.62・66・118。文和3年8月19日付、9月12日付の尊氏の書状にそれぞれ「宇都宮常陸前司殿(宛名)」(→『大日本史料』6-19 P.133)、「宇都宮前常陸介守綱」(→『大日本史料』6-19 P.154/『南北朝遺文』九州編3 P.382 3726号)とあり、正平17(1362)年7月11日付の書状(『宇佐益永証文』)にも「宇都宮常陸前司守綱」とあるのが確認できる(→『大日本史料』6-24 P.339)。
*25:『豊津町史 上巻』P.652。注16前掲山口氏著書 P.62。
*26:この合戦については 筑後川の戦い(ちくごがわのたたかい)とは - コトバンク を参照のこと。