足利 貞氏(あしかが さだうじ、1270年頃?~1285年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。足利(吉良)満氏の子。通称は足利上総三郎。足利宗家にも同名の人物がおり*1、『尊卑分脈』(以下『分脈』と略記)で「吉良三郎」と注記されることから、吉良貞氏(きら ー)とも呼ばれる。
吉良氏は足利義氏の長男・長氏を祖とし、苗字は所領の三河国幡豆郡吉良荘に由来する。本項の貞氏の生年推定のため、吉井功兒氏の論文の情報*2にも頼りながら、長氏から辿っていくことにしよう。
『寛政重修諸家譜』所収の吉良氏系図によると、足利長氏(吉良長氏)は「正応三年六月十八日卒す。年八十。」とあり*4、逆算すると1211年生まれと分かる*5。同系図は後世・江戸時代に纏められたものであるが、足利氏の家督を継いだ弟の泰氏が1216年生まれと判明しているから、その庶兄として十分信ずるに値すると思う。
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長氏の嫡男で貞氏の父にあたる足利満氏(吉良満氏)については生年不詳であるが、『吾妻鏡』では建長4(1252)年4月から弘長3(1263)年8月にかけて「足利上総三郎(満氏)」または「上総三郎(満氏)」の呼称で21回登場しており*6、通常10代前半で元服することを考慮すれば、遅くとも1230年代後半~1240年頃には生まれていたことになる。そしてそれは、前述した父・長氏との年齢差の面でも十分辻褄が合う。その裏付けとして、同じく長氏の子で満氏の弟・国氏(今川氏の祖)は1243年頃の生まれと伝わる*7。満氏の生年は1240年と仮定しておこう。
*尚、満氏は源満仲、国氏は源義国、国氏の嫡男・基氏は源経基と、各々先祖にあやかった1字を用いた名乗りと見受けられる。
そして、小谷俊彦氏の紹介*8によると、満氏は文永8(1271)年、所領の三河国吉良荘内に禅宗寺院実相寺を建立し、僧・円爾(えんに)を開山に請じたといい、出典とされた『聖一国師年譜』を確認すると次のように書かれている*9。
「……足利源総州満氏請メ為二参州実相ノ第一世ト一……」
この『聖一国師年譜』は円爾の遺命により、弟子の鉄牛円心が弘安4(1281)年2月の元寇襲来の最中に撰したものであるといい*10、記述も前年までとなっている、当時の一級史料と言えよう。その当時の時点で「総州」と書かれているから、満氏は【系図1】での記載通りに、弘安年間の段階で上総介に任官していたと判断できる。この頃40歳位であったことになるが、任官後或いは在任中の年齢として全く問題はない。
ここで、次の史料を掲げておきたい。
●【史料2】『鎌倉年代記』裏書 / 『北條九代記』・弘安8(1285)年条*11:
今年弘安八十一月十七日、申時、城陸奥入道覚真(=泰盛)一族悉被誅。但丹後守頼景法師脱殃訖、合戦之日、余炎移将軍御所焼失訖、越後守顕時為泰盛入道縁坐之間、左遷総州埴生庄、永仁四年被召返、合戦之時非分被誅輩、刑部卿相範、三浦対馬前司(=頼連)、懐島隠岐入道(=二階堂行景)、伴野出羽入道(=長泰)、太宰少弐(=武藤景泰?)、大曽祢上総前司、足利上総三郎、南部孫次郎(=政光?)等云々、
いわゆる霜月騒動に関する記事であり、安達泰盛方に属して討たれた代表的な有力御家人の名が列挙されている。吉井氏や谷口雄太氏*12などによると、その一人である「足利上総三郎」は貞氏に比定されるといい、これが近年の研究において定説になったと言えよう。
前述の通り、確かに父・満氏もかつては同じ通称で呼ばれていたが、1276~1283年にかけて越前守護に在職し*13、恐らく北条時宗逝去に伴うものと思われるが、弘安7(1284)年に出家する(【系図1】)までには上総介任官が認められていた筈で、それは前述の『聖一国師年譜』で裏付けることができた。
「上総三郎」というのは、父が上総介で、その「三郎(本来は3男の意)」であったことを表しており、【史料2】当時においてそれは上総介満氏ではあり得ない。よって『分脈』と照合しても貞氏に相応しいだろう。
「貞氏」の名は、「氏」が曽祖父・義氏以来の通字であるのに対し、「貞」は烏帽子親からの一字拝領の可能性も否定はできない。父・満氏と同様で「貞」の字が祖先の貞純親王に由来するという見方もできなくはないが、【史料2】当時の執権・得宗は北条貞時で、得宗専制が強まり、偏諱の授与も積極的に拡大していた貞時政権下で「貞」の字の使用が許されているのは重要な意味合いを持つだろう。
また足利氏にとっても、嫡流(頼氏―家時―貞氏)のほか、頼氏の兄・家氏の嫡男である足利宗家も北条時宗の受諱であるといった具合に、得宗からの一字を拝領する家系が支流にまで拡大していたから、家氏流斯波氏と同じくこの当時「足利」呼称が許されていた長氏流吉良氏もその例外ではなかっただろう。そういった意味で貞時治世下で「足利上総三郎」=貞氏が生きていたことはその証左になると言えよう。
よって貞氏は、弘安7年4月の時宗の死によって家督と執権を継いだばかりの貞時を烏帽子親として元服し、その偏諱「貞」を許されたものと判断される。【史料2】での「足利上総三郎」という通称から、元服からさほど経っていなかったために無官であったことが分かり、『分脈』で「吉良三郎」としか記されていない理由もそのためであろう。
貞氏の死後、祖父・長氏の養子として家督を継いだとみられる足利(吉良)貞義(弥太郎)も年の離れていない弟で同様であったとみられる。
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脚注
*1:足利貞氏も通称が「足利三郎」であり、吉良貞氏の "足利上総三郎" 呼称は区別の意図もあったのかもしれない。
*2:吉井功兒「鎌倉後期の足利氏家督」〈所収:田中大喜 編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉(戎光祥出版、2013年)P.169〉。
*3:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。『大日本史料』6-7 P.565。
*4:寛政重脩諸家譜 第1輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*5:吉良長氏(きら ながうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク。
*6:御家人制研究会(代表:安田元久)『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)P.400「満氏 足利」の項 より。
*7:享年40で、没年月日については『寛政重修諸家譜』所収今川氏系図では弘安4(1281)年2月23日、『尊卑分脈』の今川氏系図では弘安6(1283)年2月23日と若干異なるが、逆算すると1242~1244年生まれとなる。
*8:小谷俊彦「鎌倉期足利氏の族的関係について」〈田中氏著書 P.135 および P.141 註(2)〉。
*9:聖一国師年譜 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。
*11:史籍集覧 第5冊 第5冊 通記類(4版 大正14) 第22 北条九代記(浅井了意) 第23 鎌倉草紙,第24 鎌倉九代後記,第25 関八州古戦録(駒谷槙都) 第26 北条五代記(三浦茂信) - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*12:谷口雄太『足利将軍と御三家 吉良・石橋・渋川氏』〈歴史文化ライブラリー559〉(吉川弘文館、2022年)P.43。
*13:凝念自筆『梵網戒本疏日珠鈔』巻八 裏書。