鎌倉時代の中条氏
中条氏は、武蔵七党の一つで小野篁の末裔を称する横山党の流れを汲み、武蔵国中条保(現在の埼玉県北部)を本領とする一族であり、小野成綱の弟とされる中条義勝房法橋・成尋(じょうじん)(『続群書類従』小野系図)の息子*1が八田知家の猶子となって中条家長と名乗り、「小野」からの改姓で藤原姓中条氏の祖となった。『尊卑分脈』(以下『分脈』と略記)には藤原北家道兼流八田氏一族として家長以降の系譜が載せられており*2、『吾妻鏡』には中条氏一族の活動の様子が確認できる。
▲【表1】『吾妻鏡』における中条氏一族の登場箇所
『吾妻鏡』や『関東評定(衆)伝』には嘉禎2(1236)年8月25日に「前出羽守藤原家長(=中条家長)」が72歳(数え年、以下同様)で亡くなったとの記録があり、逆算すると長寛3(1165)年生まれと分かる*3。
頼平については、『吾妻鏡』が文永3(1266)年の6代将軍・宗尊親王の京都送還までで記述が終わって以降も、他の史料で確認ができ、その一つ『尾張猿投神社文書』には、文永11(1274)年7月15日付で「左衛門尉頼平」の署名と花押を据えて発給された書状の控え(「中条頼平寄進状案」)が遺されている*4。同文書には、延慶2(1309)年3月25日付「従五位下前出羽守景長」の書状の控え(「中条景長寄進状案」)も収録されている*5。いずれも猿投神社に所領の一部を寄進するといった内容であり、発給者の頼平・景長は尾張守護であったとされる中条氏の「頼平―景長」親子に相応しい。
南北朝時代の中条氏
「前出羽守景長」の書状から25年後、建武元(1334)年の書状(『南部文書』)にて「中条出羽前司時長」なる人物が確認できる*6。『分脈』での記載通り、景長の長男とみて良いだろう。既に出羽守を辞していたことが窺える。
一方で、尾張守護を継承していた人物として、暦応元(1338)年12月18日付の書状(『相州文書』)に「尾張国……(略)……当国守護中条太〔ママ、大〕夫判官秀長」が見えており*7、『師守記』同4(1341)年2月10日条でも確認できる*8。
康永3(1344)年3月21日の引付番文での三番衆の一人「中条大夫判官」(『伊勢結城文書』)*9も秀長に比定して良いと思うが、同4/貞和元(1345)年8月29日の天龍寺供養には「中条備前守」が随行しており*10、『師守記』同3(1347)年正月12日条に「中条備前守秀長」とあること*11から、1344~1345年の間に秀長が備前守に任官したことが分かる。『園太暦』正平7(1352)年2月9日条「中条備前々司秀長」*12までには退任している。
『分脈』では景長の弟に秀長(常陸前司、左衛門尉)が載せられているが、「備前守」と注記されるのは景長の子・長秀である。「秀長」と「長秀」は字が逆転した類似の名前であり、何かしらの混乱・混同が起きている可能性がある。長秀には「兵庫頭」とも注記されており、貞治6(1367)年3月23日*13から複数史料に現れる「中条兵庫頭入道 沙弥元威」はその出家後の姿とみられる。山嵜正美氏の紹介によると、『新千載和歌集』に記録される、貞和2(1346)年の足利尊氏邸での歌会における参加者の一人「藤原長秀」が史料上での初見で、至徳元(1384)年3月3日に亡くなったとされる*14。
室町時代の中条氏
中条詮秀と満秀・満平
『看聞日記』や『満済准后日記』によると、永享4(1432)年10月「中条判官」が晴れ着に相応しくない衣装であったことを咎められて面目を失い、所領の三河国高橋荘三十六郷を召し上げられると、「父老入道」が弁明に向かったが、その途上の尾張国にて自害させられたという*15。入道は9歳の孫を連れた85歳の老体であったといい、逆算すると貞和4/正平3(1348)年生まれとなり、『分脈』で長秀の孫となっている中条詮秀に比定されている*16が、詮秀は室町幕府第2代将軍・足利義詮在任期間(1359年~1367年)内に元服しその偏諱を受けたとみられることから、正しいとみて良いだろう。
前述の通り、尾張猿投神社は鎌倉時代より中条氏とゆかりがある。記載から応永22(1415)年のものとみられる同神社の棟札に「地主中条伊豆守沙弥祐詮」の名が見られ*17、これも詮秀に比定されるが、「詮」の字の共通からしても正しいのではないか。すなわち、1415年の段階で伊豆守に任官して出家していたことが窺えよう。
遡って、永和4/康暦元(1379)年7月、義詮の子で3代将軍・足利義満の右近衛大将拝賀式の際の供奉人(『花営三代記』・『後鑑』)を見ると、「帯刀」の一人に「中条備前五郎」*18、「御後官人」の一人に「中条大夫判官」*19が含まれており、各々満秀、詮秀に比定される*20。「大夫判官」とは検非違使庁の尉(六位相当)でありながら五位に任ぜられた者の呼称であり、左衛門尉であった詮秀(『分脈』より)は32歳の段階で叙爵済みであったことが分かる。息子の "備前五郎" 満秀は生年不詳だが父・詮秀との年齢差を踏まえれば1368年頃には生まれており、当時12歳位で元服から間もない頃であったと思われる。満秀は間違いなく1368年から3代将軍であった義満の偏諱を許されており、1376~77年から編纂が始まっていたとされる『分脈』*21での中条氏系図はこの満秀までが書かれているから、編纂当時には元服済みだったのかもしれない。
尚、同じく『後鑑』の同年12月27日条や『花営三代記』の康暦3(1381)年正月11日条に「中条兵庫入道」の名が見られ、兵庫頭入道元威(長秀)もその頃存命であったことが窺える。
『後鑑』明徳3(1392)年8月28日条によると、『相国寺供養記』の同日条に「中条五郎」が名を連ねており*22、これが満秀の史料上での終見であるとされる*23。当時20数歳の若さでまだ無官であったとみられる。応永19(1412)年10月16日条によると、『東寺過去帳』に中条五郎満秀が同日に入滅(=死去)したとの記述があるといい*24、享年44歳位で亡くなったことが窺える。
少し後に登場する中条満平は満秀の弟であったと考えられており、同様に義満の将軍在任期間(1368年~1394年)内に元服・一字拝領をした様子である。「平」の字は鎌倉時代の祖先「家平―頼平」父子に由来するものであろう。
『群書類従』巻511所収『永享以来御番帳』には御供衆の一人に「中条判官満平」*25、永享2(1430)年7月25日の6代将軍・足利義教の右近衛大将(前年8月4日に兼任)拝賀式*26の供奉人のうち「御後官人」の一人に「中條大夫判官満平」*27とあり、前述した同4(1432)年の「中条判官」も満平と考えられるが、この頃は左衛門尉であったとみられる。
『室町殿元服拝賀記』には供奉人のうち「御後官人」の一人に「中条刑部大輔満平」の名が見え*28、のちに刑部大輔(正五位下相当)に任ぜられたようである。
中条持保と中条持平
『花営三代記』(『群書類従』巻459所収)を見ると、応永28(1421)年11月13日条・同29(1422)年8月24日条に「中条左馬助持保」*29、同29年10月29日条・同31(1424)年7月7日条に「中条右京亮持平」*30の両名が確認でき、同32(1425)年2月22日条・29日条ではこの二人が揃って「中条左馬助持保 同右京亮持平」と書かれている。
この二人の確実な系譜は不明であるが、ともに当時の4代将軍・足利義持(在職期間:1394年~1423年、以後も1425年の息子・義量〈5代将軍〉の早世を挟んで1428年の逝去まで実権を握る)の偏諱を許された、満秀・満平兄弟の次世代と見受けられる*31。左馬助(正六位下相当・次官級)*32であった持保(もちやす)の「保」は、祖先と仰ぐ小野篁の子・小野保衡(やすひら)*33にまで遡って取ったものと考えられよう。右京亮(従五位下相当・次官級)*34であった持平(もちひら)の「平」は、満平と同様、或いは満平の息子として1字継承のいずれかが考えられる。
「持保・持平」の順で書かれているものの、官職的には先に叙爵(従五位下への昇叙)していた持平の方が上位であり、「持保・持平」はあくまで年齢順で、持保が庶流、持平が嫡流であったと見受けられよう。筆者の勝手な推測ではあるが、「持保が持平の庶兄」或いは「持保が満秀の遺児で、持平が嫡流を継承した満平の子」のいずれかのケースが想定される。
尚、中条氏一門にはもう一人、「持」の偏諱を受けた人物として中条持家がいたという*35が、典拠となる史料が不明で筆者は未確認である。持保或いは持平の近親者(恐らく兄弟)とみられ、「家」は祖先の「家長―家平」父子に由来するものであろう。
中条氏当主の世代推定
中条詮秀以降
これまで見てきた中で生没年が確実となっているのは中条詮秀(1348-1432)である。前述のように、長男・満秀の生年も詮秀との年齢差や史料上での初見を踏まえ1368年頃と推定した。繰り返すが、詮秀については32歳の段階で大夫判官と呼ばれ、叙爵済みであったことが分かり、その後伊豆守に任官して68歳の段階で既に出家していたことも前述の通りである。
満平も満秀の弟とみられ、生年は早くとも1370年頃と思われる。
よって、親と思しき満秀・満平兄弟との年齢差を踏まえれば、持保・持平は早くとも1390~1400年代の生まれになるだろう。足利義持の将軍在任中に元服したことが確実となり、20代で左馬助や右京亮の官職を得ていたことになる。
中条秀長・秀孝
ところで、中条満秀に比定されるという「中条備前五郎」の通称は、祖先が備前守であったことを示している。通常は父親の官途が付されるが、父・詮秀は最終官途が伊豆守で、同時期にはまだ国守任官前で「大夫判官(左衛門尉)」と呼ばれていたため、「中条備前守秀長」の官途が付されたと判断できる。
すなわち、詮秀・満秀父子が秀長の直系子孫であったことが裏付けられ、「秀」が通字として継承されていることからも疑いはない。『分脈』で確認しても「長秀(史料上では秀長)―秀孝―詮秀―満秀」となっている。
以下、詮秀の生年から遡る形で、まずは秀長・秀孝の生年を推定してみたい。親子の年齢差を20歳、25歳とした場合で算出すると次の通りである。
● 秀長:1308年/1298年
● 秀孝:1328年/1323年
秀長は前述の通り、史料上に現れているので、照らし合わせてみよう。当時の年齢は次のように推定される。
● 1338年~:大夫判官(左衛門尉)
→ 31歳/41歳
● 1344~1345年:備前守任官
→ 37歳/47歳
鎌倉時代の間は多くの各御家人で官職任官の低年齢化の傾向が見られたので、のちの孫・詮秀の例も踏まえると、1308年説を採る方が妥当ではないかと思う。よって、秀長の生年は1308年頃と推定しておきたい。
尚、中条秀孝(ひでたか)については管見の限り史料上で確認できないが、『分脈』は系図集として比較的信憑性も高いので、秀長と詮秀を繋ぐ存在として実在を認めて問題ないと思う。左衛門尉止まりであり、恐らく国守任官を目前に早世したのであろう。史料上に現れないのもそのためであると思う。祖先・小野氏の「孝泰(隆泰とも)―義孝―資孝」*36で代々用いられた「孝」の字を取ったものとみられる。
中条景長・時長
景長は1309年の段階で、時長は1334年の段階で前出羽守であったことは前述の通りである。退任済みであったことも考慮すれば、若くて40歳程度になるのではないかと思うので、各々同年での退任とした場合で逆算すると、生年は遅くて次のように推定される。
● 景長:1269年頃
● 時長:1294年頃
『分脈』では景長の子に時長と備前守長秀〔ママ〕を載せており、時長は前述の秀長と兄弟としてさほど離れていない年齢になるので、ほぼ妥当な推定になるのではないかと思う。端数を抜いて時長の生年は1290年頃としておきたい。尚「時」の字は当時勢力を誇っていた執権家・北条氏の通字でもあり、北条氏からの一字拝領の可能性があるが、ここではその判断は差し控えたい。
尚、1290年には次の書状が出されている。
【史料4】正応3(1290)年?月23日付「関東御教書」(『新式目』)*37
条々
一. 造作事
一. 修理并替物用途事
一. 垸飯役事
右三ヶ条、充課百姓事停止之、以地頭得分可致沙汰焉、
一. 五節供事
右、充課百姓事、可令停止之矣、
一. 可令禁制人売事
右、称人商専其業之輩、多以在之云々、可停止、違犯輩者可捺火印於其面矣、
一. 沽酒事
一. 六斎日、二季彼岸、自八月一日至十五日殺生事
右両条、固可令禁断焉、
以前条々、背制法之輩者、可被処罪科之由、可相触尾張国中、若令違犯者、守護地頭同可有罪科之状、依仰執達如件、
正応三 廿三 陸奥守 在御判
出羽二郎左衛門尉 相模守 同
この史料での「出羽二郎左衛門尉」は中条景長に比定されている*38。前述の推定生年から算出すると、当時21歳で既に左衛門尉の官途を得ていたことになるが、【表1】にも掲げているように曽祖父・家長も26歳で初の官職を得ているから、特におかしくはないだろう。景長の生年は1260年代であった可能性が高いと考えて良いと思う。家長の1字を取ったと思しき「長」に対し、「景」の字は形式上親戚関係にある宇都宮氏の当主・宇都宮景綱(1235-1298)からの偏諱が想定されるが、あくまで推論に留めておく。
中条家長・家平・頼平
中条家長は前述の通り1165年生まれと判明している。貞応2(1223)年59歳の叙爵と同時に出羽守と、高齢での国守任官であったが、鎌倉時代初期・前期においてはさほど珍しくもない。むしろ【表1】で分かるように、繰り返しだが26歳の時点では右馬允(七位相当)の官職を得ていたから、以降も10代後半~20代前半で最初の官職を得たと見なして良いだろう。
そう考えると、家長の子・家平は左衛門尉に任官した1225年当時、そのくらいの年齢であったと考えられ、1200~1210年の間の生まれと推定できる。父・家長との年齢はかなり離れるが、『吾妻鏡』では1230年代後半になってやっと、家平の弟とみられる"出羽三郎左衛門尉"光家、"出羽四郎左衛門尉"光宗が現れ始める(【表1】)ので、むしろ兄弟間であまり年齢差がなかっただろうという判断である。
すると、家平の子・頼平は、早くとも1220~30年代の生まれ、また前節での推定に従うと、景長の父として遅くとも1240年代生まれとすべきであるが、【表1】での"藤次左衛門尉"頼平の活動期間は、北条時頼執権期間(1246~1256年)*39と重なっており、その偏諱「頼」の使用が認められているから、時頼と頼平は烏帽子親子関係にあったと判断される。よって、頼平は1230年代前半に生まれ、1246年に執権を継いだばかりの時頼から1字を賜って元服したと推定しておく。
● 家平:1205年頃
● 頼平:1230年代前半
● 景長:1260年代
脚注
*1:『吾妻鏡』建久元年2月12日条に「中条義勝法橋、同子息藤次」とある(→『大日本史料』4-3 P.28)。
*2:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 第2巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 第2巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*3:『大日本史料』5-10 P.847~848。新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№119-中条家長 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*4:『鎌倉遺文』第15巻11691号。
*5:『鎌倉遺文』第31巻23650号。
*10:『大日本史料』6-9 P.250・276・288・315。
*14:山嵜正美「平法中條流の傳系について」(所収:『武道学研究』38-(2)、2005年)P.23~24。
*15:『編年史料』後花園天皇・永享4年10月 P.15~16。
*16:中条詮秀 - Wikipedia。中世人今際図巻 中条 詮秀。
*18:群書類従 第576-578冊(巻459上中下) - 国立国会図書館デジタルコレクション。国史大系 第6巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*19:群書類従 第576-578冊(巻459上中下) - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*21:尊卑分脈 - Wikipedia。尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)とは? 意味や使い方 - コトバンク。
*22:国史大系 第6巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*23:中条満秀 - Wikipedia より。
*24:国史大系 第7巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*25:群書類従 第643-644冊(巻510下-511) - 国立国会図書館デジタルコレクション。永享以来御番帳。
*27:足利義教右近衛大将拝賀式供奉人。典拠は『建内記』・『薩戒記』。
*29:同30(1423)年4月27日条、同32(1425)年3月2日条の「中条左馬助」も持保に比定される。
*30:同32(1425)年3月2日条の「中条右京亮」も持平に比定される。
*32:左馬助(さまのすけ)とは? 意味や使い方 - コトバンク より。
*33:武家家伝_横山氏および武家家伝_中条氏の各系図より。
*34:右京の亮(うきょうのすけ)とは? 意味や使い方 - コトバンク より。
*37:注 前掲水野氏論文 P.124~125 より。『鎌倉遺文』第23巻17508号。
*38:水野智之「尾張守護・守護代・守護又代一覧について」(所収:『愛知県史研究』11号、2007年)P.124~125。