Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

島津忠時

島津 忠時(しまづ ただとき、1202年~1272年)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将、御家人島津忠久の嫡男で、島津氏第2代当主。初名は島津忠義(ただよし)。通称は三郎兵衛尉。大隅守。法名道仏(どうぶつ)。

 

 

吾妻鏡』における忠義(忠時)

まずは『吾妻鏡人名索引』*1に従って登場箇所を確認する。

初出は、承久3(1221)年6月18日条、承久の乱に際し幕府側として参戦した「嶋津三郎兵衛尉」とされる。次いで貞応元(1222)年2月6日条、7月3日条にも「嶋津三郎兵衛尉忠義」とあり、この頃元服済みであったことが窺える。尚、「三郎」は嫡男として父・忠久の仮名を引き継いだもので、必ずしも3男を意味するものではなく、以後家督継承者代々の称号と化している。

翌2(1223)年10月13日条まで「嶋津三郎兵衛尉〔ママ〕」であったものが、次の安貞2(1228)年7月23日条から同年10月15日条、貞永元(1232)年閏9月20日と3回に亘って「嶋津三郎左衛門尉」と書かれており、20代半ば程の年齢で左衛門尉に任官したようである

その後、寛元元(1243)年7月17日条、8月16日条に「大隅前司」、同4(1246)年7月11日条に「大隅守忠時」とあるが、宝治元(1247)年6月14日条に「嶋津大隅前司忠時」とあることから、左衛門尉忠義は後に大隅となって退任し、名乗りも「忠時」に改めたことが窺える(忠義と忠時が同人であることは後述参照)。以後、文応元(1260)年正月1日条まで登場し、実名の表記も「忠時」で通されている。 

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尚、建長4年4月3日条に「嶋津大隅修理亮久時」と現れて以降、嫡男の島津久時(のちの島津久経が「大隅修理亮」の通称名で通されて25回登場しており*2、父である忠時大隅守(大隅前司)であったことを裏付けている。

 

 

『島津家文書』における忠義(忠時)

ところで、忠時忠義の改名後の名前であることは「信濃太田庄相伝系図」に「忠義 道佛 改忠時」とある*3によって裏付けられるが、前節で紹介した『吾妻鏡』ではその改名時期を確定させることが難しい。特に左衛門尉時代に関しては実名が書かれていないのでどちらであったかが不明である。

そこで本節では、『島津家文書』に所収の実際の一等史料(書状)における登場箇所を次に掲げながら、その名乗りに着目してみたいと思う。

 

承久3(1221)年8月25日付「関東下知状」:「嶋津三郎兵衛尉忠義*4

承久3年閏10月15日付「関東下知状」:「左兵衛尉惟宗忠義*5

貞応2(1223)年6月6日付「関東下知状」:「左衛門尉藤原忠義*6

貞応3(1224)年9月7日付「関東下知状」:「左衛門少尉藤原忠義*7

嘉禄3(1227)年6月18日付「島津忠久譲状」:「左衛門尉惟宗忠義*8

嘉禄3年10月10日付「将軍家藤原頼経安堵下文」:「左衛門尉惟宗忠義*9

 

前節で紹介した『吾妻鏡』での表記の変化ともほぼ問題なく合致しており、貞応2(1223)年(忠義22歳)の段階で左衛門尉に任官し、その間も「忠義」と名乗っていたことが分かる。

 

 

名乗りについて

以上の内容を踏まえて「忠義」・「忠時」の実名に着目してみたい。

『島津国史』によれば「忠」の字は父・久が元服時に烏帽子親の畠山重から偏諱を受けたものという*10が、一方で忠久の実父は惟宗忠康で単に「忠」字を継承しただけとする説もある。

いずれにせよ、父・忠久から継承した字ということになり、従って「義」の字が烏帽子親からの一字拝領の可能性が考えられる。前節で紹介の通り、当初は2代執権・北条時自らが「忠」の名を記して書状を発給しているが、自らの偏諱である「義」字の使用を認めていたことになる。勿論、義時に「義」字を与えたとされる三浦氏*11の一門(義村・和田義盛など)や、元々通字としていた足利氏一門(義氏など)のように「義」を使っている御家人も少なからずいたが、安達のように「義」字を用いた前例の無い氏族の場合、執権・義時からの一字拝領が十分に考えられると思う。

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忠義の場合、生年に基づくと元服の年次は1211~1216年頃であったと推定されるが、同じく当時の執権であった(在職:1205年~1224年)*12を烏帽子親にした可能性を考えても良いだろう。

 

そして、嘉禄3(1227)年10月~寛元4(1246)年の間に「」に改名したというが、「時」は紛れもなく執権・北条氏の通字である。従って、北条氏から1字を与えられての改名とみて良いだろう。義時の死後、3代執権となった北条泰時(在職:1224年~1242年)*13も「忠義」と書いて下知状を発給しているから、泰時が執権就任後直ちに「時」字を強制したわけではなく、それは「義」が父・義時の偏諱であったからではないかと思われる。

 

ここで参考にしたいのが、泰時の弟・実泰の例である。 

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吾妻鏡』によると、建保2(1214)年10月3日、3代将軍・源実朝の御前において元服し、「実」の偏諱と父・義時の1字により当初は「」と名乗っていたが、表記の変化から、嘉禄元(1225)年~安貞2(1228)年1月の間に兄・泰時の1字を受けて「」と改名したようである。

嘉禄3年10月まで「忠義」を名乗り、その後間もなく「忠時」に改名したのだとすれば、実泰の改名時期とほぼ重なる。寛元年間当時の4代執権・経時、或いは寛元4年3月に5代執権となったばかりの時頼の代になって突如「時」字が与えられるというのも妙な話だと思うので、やはり泰時の代に「時」字の付与が行われたと考えるのが自然だと思われるが、泰時晩年期になって突如与えられるというのもまた不自然であろうから、改名時期は実泰とほぼ同じと考えて良いのではないか。

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この頃の泰は、寛喜元(1229)年に武田信、天福元(1233)年に実泰の子で甥にあたる金沢実の烏帽子親を務めて「」字を与えており*14、島津忠も同様にして改名がなされたと推測される。忠時が自らの意志により願い出たものなのか、泰時側から強制されたのかは分からないが、泰時―忠時が烏帽子親子に準じた関係を結んで連携を強化しようとした狙いがあったのではないかと思われる。

忠時の子・久も「時」の偏諱が許され、以後「忠久」も得宗と烏帽子親子関係を結んだようである。

 

(参考ページ)

 島津忠時 - Wikipedia

 島津忠時(しまづ ただとき)とは - コトバンク

 

脚注

*1:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.340「忠義 島津」および P.344「忠時 島津」の項 より。

*2:吾妻鏡人名索引』P.73「久時 島津」の項 より。

*3:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.298(306号)。この系図は、嫡流が忠久の曾孫・忠宗、庶流でも忠久の玄孫の代以降の記載が無く、鎌倉時代後期の成立と推測され、信憑性は高いと思われる。

*4:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.14(20号)

*5:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.15(21号)

*6:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.15(22号)

*7:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.17(25号)

*8:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.17(26号)

*9:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.18(27号)

*10:鶴峰旭『畠山重忠資料集』第8編「畠山重忠と島津家」P.7・13。

*11:細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史 ―権威と権力―』〈日本史史料研究会研究選書1〉(日本史史料研究会、2007年)P.17。

*12:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その2-北条義時 | 日本中世史を楽しむ♪細川氏のブログ)より。

*13:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*14:今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.47・49。