Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

工藤貞行

工藤 貞行(くどう さだゆき、1280年代?~1338年?)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武士。藤原南家為憲工藤氏の一族。通称は中務右衛門尉、右衛門尉。当初は得宗被官(御内人)であったとみられる。

子女に加伊寿御前(かいずごぜん、南部信政室、南部信光政光の母)福寿御前など5人の娘がいたという。

 

 

史料上における工藤貞行

まずは、貞行に関する史料を見ていきたいと思う。

 

【史料1】元亨3(1323)年11月3日付 「工藤貞行譲状」『遠野南部家文書』)*1

ゆつりわたす、ひたちの國田むらの村、みちの国いくのしやうかなはらの保のうち、かた山のむらの御たいくわんしき、ならひにかまくら西御門の地事、
右ところ々、むすめかいすこせんに、ゆつりわたす所也、たのさまたけあるへからす、もししせんの事あらは、のはからひたるへし、子なくは、いもうとともの中にゆつるへし、仍状如件

元亨三年十一月三日 右衛門尉貞行(花押)

 

(読み下し)

譲り渡す 常陸の国田村の村、陸奥国伊具の荘、金原の保の内片山の村の御代官職、並びに鎌倉西御門の地のこと
右所々、娘・加伊寿御前に譲り渡す所なり。他の妨げあるべからず。もし自然(=万が一)の事あらば、の計(はか)らいたるべし。子なくば妹どもの中に 譲るべし。仍って状 件(くだん)の如し。

元亨三年十一月三日 右衛門尉貞行(花押)

この史料は、万一に備え、生前に娘(嫡女:後掲【史料7】参照)加伊寿御前常陸国田村村等の所領 および その代官職を譲るとした内容となっているが、後述史料群と照合すれば、発給者「右衛門尉貞行」は工藤貞行に比定される。現在確認されている限りでは貞行の初出の史料であり、この当時右衛門尉任官済みであったことが窺える。

 

【史料2】『浅瀬石文書』より『身延町誌』に掲載)

南部大膳太夫源師行公之大将、結城七郎左衛門尉親光〔ママ〕、都築彦四郎入道、中務右衛門、安保弥五郎入道、弾正左衛門尉、浅石城主千徳頼行公之大将、内紀六郎入道、中村弥三郎祐高、伊賀右衛門資郎、毘沙門堂阿闍梨、大館城主鳴海三郎太郎行光之大将、小河入道弥四郎、武石右衛門惟俊、独錮城主浅利六郎四郎之大将、倉光孫三郎、和賀右衛門勝昌、大里城主成田小次郎之大将、滝瀬彦次郎入道、小川次郎宗武

この史料は、南津軽郡浅石村にある長寿院の延命地蔵尊の胎内から発見され、戦後公にされたという『浅瀬石(あせいし)文書』に収録されているもので、鎌倉幕府滅亡後の大光寺合戦(1333~34年)の際に南部師行が動員した部隊の名簿である*2鹿角四頭の安保氏・成田氏など多くの者が名を連ねる中で、「中務右衛門」は後述【史料4】との照合により工藤貞行に比定されよう*3

 

【史料3】建武元(1334)年8月21日付「工藤貞行譲状」(『遠野南部家文書』)

(端裏書)「かいす御せんか分ゆつり状」

譲渡  女子加伊寿御前

 一所 津軽山邊郡二想志郷内 下方 為大光寺合戦勲功

                 所々拝領貞行

 一所 田舎郡上冬居郷拾分参

右所譲与同加伊寿御前也、御下知并置文等者、預置于女房数子母許、自然有違目之時者、任彼證文等、可明申子継、但向後右出来男子者、改此譲、可配分之状如件、

建武元年八月廿一日  貞行(花押)

 

(読み下し)

加伊寿御前が分 譲状」
譲渡  女子加伊寿御前

一所 津軽山辺郡二想志郷内下方(大光寺合戦勲功の為貞行所々拝領なり)
一所 田舎郡上冬居郷拾分参
右は加伊寿御前に譲り与える所也 御下知並びに置き文等は女房(数子母)の許に預け置き 自然違い目あるときは彼の証文等に任せ子細を明かす申しべし

但し向後若し男子出来せば 此の譲りを改め配分すべしの状 件の如し
  建武元年八月廿一日  貞行(花押)

大光寺合戦での勲功として貞行は、津軽山辺郡二想志郷内の下方を拝領するが、これについても田舎郡内の所領と共に、娘・加伊寿御前に譲るとした内容の書状を出した。それがこの【史料3】であるが、①置文などは自身の妻(=後述史料でのしれんに預けておき、万一食い違いが生じたときにはそれらの証文に従うこと、②もし(加伊寿御前に)今後男子が出生した場合には改めて配分する、と付け加えている。 

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【史料4】建武元(1334)年12月14日付「津軽降人交名注進状」(『遠野南部家文書』)より*4

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一、被留置津軽降人交名事

 (中略)

 工藤六郎入道道
 同三郎二郎維資  中務右衛門尉両人預之

 (中略)

右粗降人等交名注進如件
 建武元年十二月十四日

断続的に続いていた大光寺合戦は同年11月19日、持寄城に楯籠っていた旧鎌倉幕府方の名越時如工藤高景*5らが降伏したことにより終結。【史料4】はその後間もない12月14日に、南部師行が降伏した捕虜52人と預人21人を記載し、陸奥国司の北畠顕家など全軍に報告するための名簿としてまとめたものである。

そして、投降人のうち工藤入道道(どうこう、俗名不詳)*6工藤維資(これすけ)の2名を預かる「中務右衛門尉」も前掲【史料2】に名を連ねていたが、次に示す【史料5】により同族の貞行に比定される。

 

【史料5】建武2(1335)年正月26日付「北畠顕家国宣(下文)写」(『曾我文書』)*7

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(端裏書)めやの郷(目谷の郷)御下文案

---------------------------------------------
    御判
可令早工藤中務右衛門尉

 貞行領知、津軽鼻和郡目

 谷郷 工藤右衛門尉貞祐法師 外濱野尻郷

 等事、

右為勲功賞㪽〔=所〕被宛行也、早守

先例、可被其沙汰之状、㪽〔=所〕仰如件、

建武二年正月廿六日

 

(読み下し)

早く工藤中務右衛門尉貞行に領地せらるべし津軽鼻和郡目谷郷(工藤右衛門尉貞祐法師)外ヶ浜野尻郷等の事

右は勲功の賞のため宛行われる所なり 早く先例を守り其の沙汰せらるべきの状 仰する所件の如し  建武二年正月二十六日

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大光寺合戦における北条方鎮圧の勲功(恩賞)として、(【史料3】に記載の地に加え)工藤貞祐 ""(=旧領、この場合は没収地の意)*8であった津軽国鼻和郡目谷郷貞行に与えられたという史料である。

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こちら▲の記事で紹介の通り、貞祐若狭国守護代摂津国多田庄政所をつとめるなど、父・杲暁と共に有力な得宗被官(御内人)としての活動が確認でき、建武元年末に処刑された「工藤次郎右衛門尉」が通称名や世代の一致から貞祐ではないかと推測したが、いずれにせよ鎌倉幕府滅亡に伴って貞祐の旧領が没収されていたことは認められよう。翌建武3(1336)年にも同じく貞祐と思われる「工藤右衛門尉」の旧領・駿河国沼津郷が曽我時助に与えられている*9

"次郎右衛門尉"貞祐については、【史料5】のように単に「工藤右衛門尉」と記す史料も数点残されていることから、得宗被官工藤氏の中では事実上惣領のような家格にあったと考えられ、【史料5】でも貞祐と区別されて貞行は「工藤中務右衛門尉」と呼ばれていたことが窺える。父親が中務丞で、貞行自身が右衛門尉であったことを表すものと判断される。

次の史料にも「工藤中務右衛門尉(=貞行)」の名が見られる。

 

【史料6】暦応2(1339)年5月20日付「曽我貞光目安状」(『南部文書』)*10

目安
曾我太郎貞光大光寺合戦忠節次第事
一、去三月為大将軍先代越後五郎殿、南部六郎〔親類并成田小次郎左衛門尉、同六郎、工藤中務右衛門尉若党等、安保小五郎、倉光孫三郎、滝瀬彦次郎入道以下御敵等、令乱入国中、大光寺外楯打落之処馳向貞光最前、令致散々合戦之間、一族曾我次郎師助代官等馳来、令致合力候処、経三ヶ月令退散了、此間分取打死手負 不可勝計、仍賜御判、為備後証、粗々目安言上如件、
 
 暦応二年五月廿日  承候了(花押 *安藤太師季

この史料でまず注目すべきは、【史料3】での貞祐に同じく「」という表現が付されていることである。後掲【史料7】・【史料8】と照らし合わせても、この時「工藤中務右衛門尉」=貞行は亡くなっていたと判断されよう。一説には北畠顕家にそのまま従って西上し、延元3/暦応元(1338)年の和泉国堺における石津の戦いで顕家や師行らと共に戦死したとも言われている*11

そして、【史料6】の内容としては、暦応2年3月、北条越後五郎*12を総大将として、南部政長(師行の弟)*13の親類、並びに、成田頼時(小次郎左衛門尉)*14、故・貞行の遺臣(若い郎党・従者*15や、【史料2】にも名を連ねていた安保氏*16倉光孫三郎滝瀬彦次郎入道等の南軍が領内に乱入し、大光寺城を攻撃。これに対し曾我貞光津軽曾我氏本家筋にあたる曾我師助(もろすけ)*17所領の代官などの来援を得ながら、3ヶ月で南朝方を退散させたと伝えている。 

 

【史料7】興国4(1343)年6月20日付「尼しれん譲状」(『南部文書』)*18

(包紙)信光 あましれんより娘加伊寿御前への譲状

時に興国四年六月廿日、加伊寿御前信光の母也

ゆつりわたす

 くろいしの所りやうの事

さたゆきのゆつりに、いつれの所りやうもこけいちこのほとハしりて、のちにハ女しともに、あいはからいてゆつるへしと候、くろいしハいつれの女しともの中にも、もちぬへからんにゆつるへしと候、をなしこともと申なから、心さしあるによて、ちゃく女なんふとののねうハうかいすこせんに、ゑいたいをかきりてゆつる、ししそんそんにいたるまて、たのさまたけあるへからす、たたしいしなさかをは、ふくしゆこせんに、ゑいたいをかきりてゆつる、心さしあるによて、いもをとふくしゅこせんにゆつるなり、ミはなち給へからす、いつれのいもをとこせんをも、はからいとして、ミさはつり給へし、これはこけしれんかしひつなり、よのゆつりありとゆふとも、もちいへからす、よてゆつりしやうくたんのことし、

 

こうこく四年六月廿日  あま志れん(花押)

 

(読み下し)

譲り渡す 黒石の所領のこと
貞行の譲りにいずれの所領も 後家一期の程はしりて 後には女子共に相計らいて譲るべしと候 黒石はいずれの女子共のなかにも 持ちぬべからん(=黒石の所領をずっと保持できる者)に譲るべしと候 同じ子どもと申しながら志あるによって 嫡女南部殿の女房・加伊寿御前に永代を限りて譲る 子々孫々に至る迄 他の妨げあるべからず
但し石名坂をば福寿御前に永代を限りて譲る 志あるによって妹福寿御前譲るなり 見放なち給うべからず いずれの妹御前をも計らいとしてみさはつり給う(=面倒を見る)べし これは後家しれんが自筆なり 余の譲り有りというとも用いべからず 仍って譲り状件の如し
 興国四年六月二十日  尼しれん

 

【史料8】興国5(1344)年2月13日「尼しれん譲状」(『南部文書』)*19

(包紙)「信光 幼名力寿丸 興国五年二月十三日 あましれんより譲状」

(端裏書)「りきしゅ丸

ゆつりわたすりきしゅ丸

 つかるいなかのこをりくろいしのかう、

おなしきまん所しきの事

右所は、くとうゑもんのせうさたゆき、ちうたい乃所りやうたるあいた、しれんか乃こけとして、さうてんちきよういまにさうゐなし、そのしさいゆつりしやうにみえたり、しれん一こ乃のちハ、ちやくそんりきす丸に、此ところをゆつりあたうる也、よのしそんらいらんあるへからす、たたし此所のうち、女し五人ニすこしつゝ一このあいたゆつる也、ゆつりしやうめんめんにあり、これをたかうへからす、いつれもしひつなり、しひつにてなからんをハ、もちいへからす、よてゆつりしやうくたんのことし、

 

こうこく五ねん二月十三日  志れん(花押)

 

(読み下し)

譲渡す 力寿丸
 津軽田舎の郡黒石の郷、同じき政所職の事
右所は、工藤右衛門尉貞行重代の所領たる間、しれん彼の後家として、相伝知行今に相違なし、其の子細譲り状に見えたり、しれん一期の後は、嫡孫力寿丸に、この所を譲り与うる也、余の子孫等違乱あるべからず、
但し此の所のうち、女子五人に少しずつ一期の間譲る也、譲り証文にあり、これを違うべからず、いずれも自筆也、自筆にてなからんをば、用いべからず
依って譲り状件の如し、
 興国五年二月十三日  しれん(花押)

【史料7】・【史料8】双方の文中にある「こけ(=後家)」とは「夫に死別し、再婚しないで暮らしている女性」の意味である*20から、「しれん(=故・工藤右衛門尉貞行)後家として」という部分により、「しれん」という女性が貞行の妻(未亡人)であったことが分かる。自ら「尼」と書いているから夫の死を悼んで剃髪したのであろう。【史料1】・【史料3】で書いた通り、夫・貞行死後の工藤家を取り仕切っていたことが窺える。

【史料7】では、「しれん」が嫡女・加伊寿御前に黒石の所領を永代に譲り子々孫々まで与え、石名坂の地に関しては同じく娘(加伊寿御前の妹)福寿御前に譲るとしていたが、【史料8】で加伊寿御前が生んだ孫・力寿丸に改めて所領を譲り渡すとしている。

 

この「力寿丸」は『八戸南部系図』に「幼名力寿丸……工藤右衛門尉藤原貞行、号加伊寿御前南朝正平……十年三月十五日、顕信卿奉勅詔任大炊助、同十一年十一月十九日、亦任薩摩守、……」と注記される南部信光*21に比定して良かろう。信光の生年は明らかにはなっていないものの、【史料3】より1334年8月21日以後であることは確実で、【史料7】の出された1344年までに生まれたと考えられる。

そして同系図南朝……」以降の部分は、各々記載の日付通りに、「源信*22が「大炊助」に*23、そしてこの「大炊助源信」が「薩摩守」に*24推挙されていることが、実際の書状から裏付けられる。

正平15(1360)年6月5日には「南部薩摩守」=信光が黒石郷(【史料7】・【史料8】)・目谷郷(【史料5】)などを安堵されており*25貞行の旧領が外孫の信光に渡っていることが確認できる。

 

尚、上記の他、次の史料により貞行が生前上総国にも所領を持っていたことが窺える。

【史料9】観応3(1352)年7月4日「足利尊氏寄進状案」*26

寄進 円頓宝戒寺

上総国武射郡内小松村工藤中務右衛門出羽国小田島庄内東根孫五郎跡事、 
右為当寺造営料所、限永代所寄進之状如件、

 観応三年七月四日 正二位源朝臣(御判)

 

 

系譜・世代・烏帽子親についての一考察

近年、今野慶信が「南家 伊東氏藤原姓大系図(以下「大系図」と略記)に着目し、工藤景光に始まる得宗被官・工藤氏の主要な系図を次のようにまとめられた*27。 

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▲【図A】今野慶信作成による得宗被官・工藤氏の略系図

 

貞祐の旧領を継承していることからも、貞行についてもこれと同族とみなすのが有力である。但し「大系図」には工藤景光のその他の息子およびその子孫についてもある程度詳細に書かれているが、その中に貞行の掲載は無い。

一方、工藤祐経の末裔に貞行を載せる系図もあり(下記【図B】)、これに比定する見方もある。しかし、「大系図」では祐朝の子は祐藤( "東鑑{=吾妻鏡}では「祐泰」" との注記もあり)となっており、祐盛・祐綱はむしろ祐朝の弟(祐光・祐頼の兄)に載せられていて、祐朝の子孫が叔父や大叔父にあたる人物と同名を名乗るというのもやや不自然に感じる。また、祐時の当初の嫡男であった祐朝は分家して早川氏の祖となっており*28、その子孫が工藤に復姓したというのも奇妙である。よって、この系譜の信憑性については検討を要する。

 

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▲【図B】藤原南家・工藤氏略系図*29

 

ここで、藤原為憲の子孫をまとめた【図B】に着目すると、行に同じく為憲から見て13代目、もしくは1世代少ない12代目にあたる、父・祐盛(※系図上)のはとこ伊東、別の系統でも二階堂や、記載は無いがその従兄弟にあたる二階堂行宗の子・(およびその息子・景光流工藤氏の工藤、そしてが皆、「」の字を持つことに気付く。 

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こちら▲の記事で、共通の祖先からの代数が同じ者同士(場合によっては途中の親子の年齢差の関係で1~2代ずれているケースも含む)がほぼ同世代人であることを検証した。よって、貞行は、前述の中で生年が判明している二階堂行貞貞衡父子や、父親との年齢差から世代推定が可能な伊東貞祐二階堂貞綱と同じく、得宗・第9代執権北条貞時の1字を賜った世代と判断される。

仮に【図B】が正しいとすれば祐時の玄孫にあたるから、貞行が早くとも1265年頃の生まれであることが確実となり、それまでの通字「祐」を用いていない理由を考えても、行は時執権期間内に元服し、その偏諱」を受けたと推測される。この点からしても貞行も得宗被官(御内人)であったと考えて良いだろう。尚、元亨3年の段階で右衛門尉任官済みであったことは冒頭の【史料1】で確認できるので、得宗被官工藤氏であることも考慮してその当時30代に達していたと推測され、逆算すると1280年代に生まれ、1290年代に当時の執権・時を烏帽子親として元服したことになる

この推測は【史料1】からも裏付けられよう。改めて見ると、まず鎌倉にも所領を持っていたとあるから、幼少期に(或いは生まれた時から)在鎌倉であった可能性がある。そして、娘・加伊寿御前に対し、もし万一のことがあって子が無ければ妹に渡るよう指示しており、元亨3年当時、加伊寿御前が子供を産むような年齢に達していたことが窺える。この時彼女は10代後半~20代であったと思われるので、1334~1344年の間に生まれた息子・南部信光(前述参照)との年齢差を考えても、加伊寿御前の生年は1300年代と推測され、その父・貞行はやはり遅くとも1280年代の生まれとなる

 

前述したように、貞行の父親は「中務丞」であったことになる。【図B】での祐朝の系譜についてあまり信憑性が無いことも既に述べたが、祐盛が中務丞であったという史料も未確認である。むしろ、年代的には嘉元3(1305)年の連署北条時村殺害犯の一人として処刑された「工藤中務丞有清*30の方がまだ該当する可能性があるだろう。

*或いは【図B】の貞行が、本項の中務右衛門尉貞行と同姓同名の別人の可能性もあり得るので、下記理由からも工藤祐経の後裔説は否定しておきたいと思う。

 

また、貞の「」が工藤に通じる可能性がある。行光の名は父・景光と曽祖父・行景の各々1字によって構成されたものと思われるが、息子が「工藤中務次郎長光」と称されている*31ことから、行光が最終的に中務丞に任官したことが分かる。「大系図長光の項には「布施(二郎)右衛門尉」とあり、「大系図」には無いが【図B】を見ると、右衛門尉(大尉:従六位下、少尉:正七位上 相当)*32中務丞従六位上相当)*33を代々継承した家系があったのではないか。これ以上は検証が困難だが、一説として行光の曽孫または玄孫であった可能性を提示しておきたい。

 

いずれにせよ、貞行は有力な得宗被官であった工藤貞祐とほぼ同世代人で、鎌倉幕府滅亡後は貞祐とは分かれて建武政権側について生き残り、その旧領を継いだのであった。但し貞行は男子には恵まれなかったので、その領地は娘が嫁いだ南部氏へと引き継がれていくこととなり、信光の系統(根城南部氏・八戸氏)は後世、盛岡藩主となった南部本家を家老として支えていくこととなる。

 

(参考ページ)

 工藤貞行 - Wikipedia

工藤貞行関係資料

 安東氏関連 武将列伝 #工藤貞行

 Roots №3 (工藤貞行 その2) - 龍田 樹(たつた たつき) の 【 徒然ブツブツ日記 】

 津軽工藤氏と根城南部氏 - 「じぇんごたれ」遠野徒然草

 橋本竜男「元弘・建武津軽合戦に関する一考察」(所収:『国史談話会雑誌』53巻、東北大学文学会、2012年)

 

脚注

*1:『鎌倉遺文』第37巻28573号。

*2:『身延町誌』第三編 第三章 第五節 より。

*3:前注同箇所。

*4:『大日本史料』6-2 P.137も参照のこと。写真は『新編弘前市史』通史編1(古代・中世)P.553<写真157>より引用。

*5:安達高景とする説が誤りと思われることは 【論稿】大光寺合戦における工藤氏一族について - Henkipedia 参照。

*6:熊野奥照神社(現・青森県弘前市)には、建武3(1336)年3月19日付で「道光禅門」の没後五十七日忌にあたって建立された板碑(供養塔)があり、この道光が工藤六郎入道に比定されている。熊野奥照神社板碑 - 弘前市『新編弘前市史』通史編1(古代・中世)口絵6

*7:『新編弘前市史 通史編1(古代・中世)』P.318https://core.ac.uk/download/pdf/144248047.pdfhttp://www.infoaomori.ne.jp/~kaku/sadayuki.htm津軽工藤氏と根城南部氏 - 「じぇんごたれ」遠野徒然草

*8:跡 (御家人) - Wikipedia も参照のこと。

*9:苅米一志「西国における曽我氏の所領と文書」(所収:『就実大学史学論集』33号、就実大学人文科学部総合歴史学科、2019年)P.84。原始から現代/沼津市工藤貞祐 - Henkipedia【史料18】参照。

*10:『大日本史料』6-5 P.455曾我氏関係史料知られざる南朝の重鎮・鎮守府将軍北畠顕信  #第四章 〜延元(三)〜

*11:津軽工藤氏と根城南部氏 - 「じぇんごたれ」遠野徒然草知られざる南朝の重鎮・鎮守府将軍北畠顕信  #第四章 〜延元(三)〜

*12:貞和3(1347)年5月日付「曽我貞光申状案」の文中でも、【史料6】と同内容で「暦應二年三月、御敵越後五郎 号先代一族 南部六郎、成田小次郎左衛門尉以下輩、率数百騎、責入津軽中之間、……」と書かれる通り、「先代」=北条氏のことで、越後五郎はその一族を称していた。その通称は「越後守」の「五郎(本来は5男の意)」を表しており、北条氏一門でこの頃の越後守に該当し得るのは北条時敦(1310-1320逝)、金沢貞将(1324当時)、常葉範貞(1325-1329)、普音寺仲時(?-1333)くらいであろう(→ 越後国 - Wikipedia)。

*13:建武元(1334)年5月3日付「後醍醐天皇綸旨」(『南部文書』)の文中に「南部六郎政長」とあるによる。『大日本史料』6-1 P.552 参照。

*14:【史料2】の「大里城主成田小次郎」が左衛門尉に任官した同人であろう。

*15:若党(わかとう)とは - コトバンク より。

*16:仮名から察するに、小五郎は弥五郎入道の嫡男だったのではないかと思われる。

*17:前述の曾我時助の孫にあたる。また、【史料6】から3年後に貞光を猶子にしたという(→『大日本史料』6-7 P.150)。

*18:『大日本史料』6-7 P.915~916

*19:『大日本史料』6-8 P.632

*20:後家(ごけ)とは - コトバンク より。

*21:『大日本史料』6-48 P.290

*22:南部氏清和源氏より分かれた源姓の家柄であった。

*23:『大日本史料』6-19 P.752

*24:『大日本史料』6-20 P.919

*25:『大日本史料』6-23 P.181

*26:千葉介の歴代 #千葉介氏胤 より。

*27:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.115。

*28:日向伊東氏略系図 より。

*29:武家家伝_奥州工藤氏武家家伝_伊東氏 および 注27前掲今野氏論文 P.115(=【図A】)により作成。

*30:工藤時光 - Henkipedia【史料15】参照。【図B】には掲載されていないが、為憲流工藤氏一門の者で使用例がある「清」字を持つことから、やはりその一族とみなして良いだろう。

*31:『吾妻鏡』承久4(1222)年正月7日条

*32:右衛門の尉(うえもんのじょう)とは - コトバンク より。

*33:黛弘道「中務省に関する一考察 ー律令官制の研究(一)ー」(所収:『学習院大学文学部研究年報』18号、学習院大学、1972年)P.96 より。