千葉泰秀
千葉 泰秀(ちば やすひで、1220年頃?~1247年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。祖父の千葉常秀が上総国山辺郡堺郷を領したことから、上総泰秀(かずさ ー)、堺泰秀/境泰秀(さかい ー)とも呼ばれる。通称は上総五郎左衛門尉。
父は千葉秀胤。母は『系図纂要』に「上総介秀胤妻」となって「子息四人」がいたとの記載がある三浦義澄の娘であろう*1。
関連史料の紹介
まずは史料上での登場箇所を見ておきたい。『吾妻鏡』では次の箇所に現れている。
年 | 月日 | 表記 | 備考 |
仁治元(1240) | 8.2 | 上総五郎左衛門尉 | |
仁治2(1241) | 1.23 | 上総五郎左衛門尉 | |
寛元元(1243) | 7.17 | 上総五郎左衛門尉 | |
寛元3(1245) | 8.15 | 上総五郎左衛門尉泰秀 | |
宝治元(1247) | 6.7 | (秀胤)三男左衛門尉泰秀 | 【史料B】 |
6.11 | 上総五郎左衛門尉泰秀 | 【史料C】 | |
6.22 | 同五郎左衛門尉泰秀 | 【史料D】 |
廿二日、癸卯、去五日合戦亡帥以下交名、為宗分日来注之、今日於御寄合座及披露云々、
自殺討死等
(中略)
同修理亮政秀 同五郎左衛門尉泰秀
同六郎秀景〔景秀〕
……(以下略)
B~Dの記事3点は宝治合戦の際、一家で三浦方について共に滅んだことを伝えるものであるが、次の史料にも同様の記載が見られる。
【史料E】『関東評定衆伝』寛元4(1246)年条より、千葉秀胤の項*6
下総前司常秀男、〻任上総権介、仁治二年十一月十日叙爵(=従五位下)、寛元元年閏七月廿七日叙従五位上、宝治元年六月於上総国被誅、子息従五位上式部大夫時秀、修理亮政秀、五郎左衛門尉泰秀、一説秀綱、六郎秀景〔景秀〕等伏誅
生年と烏帽子親についての考察
上の史料から読み取れる情報は次の3点である。
① 上総権介・千葉秀胤の3男で、仁治元年頃から「上総五郎左衛門尉」 と呼称されていたこと。
② 宝治合戦で父・秀胤や兄弟らと討伐を受け自殺(自害)したこと。
③ 宝治元年当時、泰秀の嫁=東入道素暹(=東胤行)*7の娘が生んだ男子が1歳(数え年であるためこの年に生まれたばかり)であったこと。
③より、亡くなった当時、泰秀は結婚し子供が生まれる位の年齢=およそ20歳以上であったと推測可能で、それは①にあるように左衛門尉に任官していることからも裏付けられる。ここで【史料B】・【史料D】を見ると、秀胤の息子たちの中で一番末(4男)の景秀(秀景)だけが無官で「六郎」を称していたことが分かるが、これは景秀自身が元服からさほど経っていなかったためと考えられ、10代~20歳程度と若い年齢であったと推測される。従って、すぐ上の三兄・泰秀も20代であったと考えられよう。
これを裏付けるべく、不明である父・秀胤の生年の推察からアプローチしてみよう。
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こちら▲の記事にて、鎌倉時代初期の正確な千葉氏の系譜について述べたが、歴代の家督(嫡流家当主)は次の通りである。
[参考] 千葉氏嫡流歴代当主(平安後期~鎌倉初期)の通称および生没年
*( )内数字は史料に記載の没年齢(享年)。
● 千葉常胤(千葉介)
:1118年~1201年(84) …『吾妻鏡』建仁元(1201)年3月24日条 より
● 千葉胤正(胤政とも/千葉太郎→千葉新介→千葉介)
● 千葉成胤(千葉小太郎→千葉介)
:1155年~1218年
…生年:『千葉大系図』/没年:『吾妻鏡』建保6年4月10日条 より
● 千葉胤綱(千葉介)
● 千葉時胤(千葉介)
:1218年~1241年(24) …『千葉大系図』より
祖父(秀胤の父)千葉常秀もまた生年不詳だが、兄・成胤の生まれた1155年から、父・胤正の亡くなった1202年までの間であることは間違いない。『吾妻鏡』では元暦元(1184)年8月8日条に「境平次常秀」と初めて現れるから、これよりさほど遡らない時期に元服を済ませたと考えられよう*8。1170年頃の生まれと推定される。
すると、その長男・秀胤*9の生年も1190年以後であったと推定可能である。『吾妻鏡』では、仁治元(1240)年8月2日条にある「上総権介」が初出とされる*10が、【表A】で示した通り「上総五郎左衛門尉」=泰秀も登場しており、翌2(1241)年8月15日条には泰秀の長兄・千葉時秀も「上総式部丞時秀」の名で登場するので、仁治年間当時、秀胤が上総権介であったことは間違いないだろう。
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すなわちその当時、時秀・泰秀は若くとも20代には達していたと判断できるので、親子の年齢差を考慮すれば秀胤は40代以上であったと推測できよう。秀胤は1190~1200年代、時秀・泰秀兄弟は1210~1220年代生まれの世代であったと分かる。
この時秀・泰秀兄弟の実名に着目すると、「秀」が常秀―秀胤と継承された通字であるから、それに対して上(1文字目)に置かれる「時」や「泰」が烏帽子親からの一字拝領と考えられる。これは元服当時の3代執権・北条泰時(在職:1224年~1242年)*11の偏諱であろう*12。 泰時が亡くなる前年の段階で泰秀は既に左衛門尉任官済みであったから、その元服は1230年代後半であろう。元服は多く10~15歳の頃で行われたので、逆算すると1220年代前半の生まれとするのが妥当と思われる。
脚注
*1:『大日本史料』5-22 P.166 より。尚、「千葉大系図」によると長兄・時秀の母が北条時房の娘であるといい(→『大日本史料』5-22 P.163)、「子息四人」とは政秀・泰秀・景秀と『吾妻鏡』宝治元年6月17日条にある「故上総介末子一人、一才、」を指すと考えられる。
*2:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.326「泰秀 千葉」の項 より。
*3:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*4:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*5:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*6:群書類従. 第60-62 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*7:東胤行(とう たねゆき)とは - コトバンク、 東胤行 ー 千葉氏の一族 より。典拠は『古今相伝人数分量』(早稲田大学図書館蔵)P.4、『尊卑分脈』など。東時常の祖父にあたる。
*8:注2『吾妻鏡人名索引』P.255~256「常秀 境(千葉)」の項によれば、建久元(1190)年12月2日条まで「千葉平次常秀」と書かれていたものが、同月11日条では「左兵衛尉平常秀」と表記が変化しており、同2(1191)年正月1日以降もしばらくは「(千葉/境)平次兵衛尉常秀」で通され、嘉禎年間に上総介在任が確認できる。
*9:千葉秀胤の経歴については、新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その123-千葉秀胤 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)を参照のこと。
*10:注2『吾妻鏡人名索引』P.231「秀胤 千葉」の項より。ちなみに、実名の初出は寛元2年8月15日条「上総権介秀胤」。