小山 朝郷(おやま ともさと、 1325年頃?~1346年)は、南北朝時代の武将。
小山高朝(秀朝)の長男。幼名は常犬丸(とこいぬまる*1)、元服後の初名は小山朝氏(ともうじ)。通称および官途は 小四郎、左衛門尉。
まずは、次の系図をご覧いただきたい。
【系図α】

こちら▲は、系図集としては比較的信憑性が高いとされる『尊卑分脈』に収録の小山氏系図である。前田家所蔵脇坂本を底本とする、吉川弘文館より刊行の「国史大系」本に拠ったものであるが、秀朝と氏政については別説も紹介されている(※「秀朝、按正宗寺本…」および「氏政、按系図纂…」以下の小文字の注記は本来ページの上部(ヘッダー)に書かれているものを都合上移したものなので、本来の系図には記載されていないことに注意して頂きたい)。
ただ、この系図は一部奇妙な記載があって、朝郷についても伯父と同じ「秀朝」、次いでその子と同じ「朝氏」に相次いで改名したというのであるが、これについては改名順などで誤りがあり、後述で紹介の史料により裏付けたいと思う。
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そして、こちら▲の記事で紹介の通り、高朝=秀朝と判断される。従って【系図α】での「秀朝―朝氏」と「高朝―朝郷 改朝氏」は、何かしらの混乱があったのか、同じ父子関係をあたかも別人のように重複で書いてしまったものと判断される。
『梅松論』によると、建武2(1335)年「小山常犬丸」は新田義貞を破った箱根・竹ノ下の戦いでの戦功により、足利尊氏から「由緒の地」である武蔵国太田荘を与えられたといい*2、また同年8月30日付の「後醍醐天皇綸旨」(柿沼幸衛氏所蔵『小山文書』)の宛名に「小山四郎館」とある*3が、いずれも朝氏に比定される。後者の綸旨において「四郎」の仮名(通称)で呼ばれていることからすると、この頃に元服を遂げたのではないかと思われるが、翌建武3(1336)年10月19日付「高師直施行状」(『出羽上杉家文書』)では宛名に「小山常犬殿」*4とあるのでやや確実性に欠ける。また、建武4(1337)年8月日付「野本鶴寿丸軍忠状」(『熊谷家文書』)*5の文中にも「小山常犬丸」の表記が見られ、同じく元服済みであったと思われる「結城犬鶴丸(=直朝)」と共に幼名で書かれたようである。
一方、松本一夫氏の紹介*6によれば、『太平記』巻14や延宝本『梅松論』を見ると、建武2年11月20日鎌倉を発した足利直義軍の中に「小山判官」が見え、前述の箱根・竹ノ下合戦の翌々日である12月13日には「小山判官」が伊豆黄瀬川において新田軍に敗れたものの、翌3年1月16日には小山氏が京都中御門河原において新田軍に勝利したという。そしてこの「小山判官」は、中先代の乱の最中の建武2年7月13日に戦死した「小山判官秀朝」ではなく、その嫡男・朝氏ではないかと考えておられる。但し『太平記』も『梅松論』も共に軍記物語であり、後の呼称で書かれている可能性もあり得るため、建武年間に元服を遂げていたとする根拠としてはあくまで参考程度に留めておきたい。
ただ、暦応2(1339)年9月23日に書状を発給した「左衛門尉朝氏」*7は、翌延元5(1340=暦応3)年正月22日の「小山左衛門尉朝氏」*8と同人と見なされ、1339年までの1330年代後半には元服を遂げたと判断して問題ないと思う。「朝氏」の初名は、予てより繋がりもあり、1338年からは征夷大将軍にも就任した尊氏の偏諱を拝領したものと見受けられる。
こちら▲の記事に従い、時系列が前後するが、この頃の朝氏(朝郷)の動向を今一度整理しておきたい。建武4/延元2(1337)年、北畠顕家が2度目の西征を企てて進軍する途上、10月頃には下野国小山城を攻略されて捕虜となったが、結城宗広(道忠)の懇願によって許されたという。宗広の子・親朝らの斡旋を受けて暦応元/延元3(1338)年12月末には北畠親房(顕家の父で、親朝の烏帽子親か)へ請文を進上して南朝方に属すことを伝えたが、その後も不明瞭な態度を取り続け、翌暦応2/延元4(1339)年から翌年にかけての常陸国駒城合戦に遅参したために陸奥国菊田荘内の「小山左衛門尉朝氏並女子跡(=旧領)」を没収されたというのが、前述の延元5年正月22日の書状である。
1340年当時、左衛門尉の官職を得ていて、若くして娘をもうけていたことが窺える。
尚、興国元(1340)年5月16日付「北畠親房御教書写」に「小山又兄弟合戦候」と記され、この「兄弟合戦」とは南朝方の兄・朝氏(朝郷)と北朝方の弟・氏政(または兄弟の自発的な直接対立ではなく、それぞれを擁する家臣団)の間での内戦であったと考えられている*9。
しかし、翌暦応4/興国2(1341)年に入ると、南朝内で近衛経忠を中心に「藤氏一揆」と称される反親房の分派活動が起こり、経忠は朝氏(朝郷)に「坂東管領」つまり関東支配権を任せ、彼を中心に藤原秀郷系の一門を南朝方で団結させようとしたといい*10、朝郷は南朝寄りではあっても、親房とは一線を画し、なおかつ足利方でもない道を模索していた可能性がある。
ところで、『関城書考』に「下野ノ小山左衛門尉朝郷、始名ハ朝氏、」とあり*11、『常楽記』貞和2(1346)年条には「四月十三日、小山判官朝里〔ママ〕他界、」*12という逝去の記述がみられる。朝氏がやがて【系図α】にも掲載の「朝郷」と改名したことが窺えるが、前述のように「氏」が尊氏から授けられたものであったため南朝寄りの姿勢を示すためにそうしたのではないかと推測される*13。父・秀朝と同様に祖先の秀郷にあやかったものであろう。
(参考ページ)
● 小山朝氏(おやま ともうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
● 小山朝郷(おやま ともさと)とは? 意味や使い方 - コトバンク
脚注
*1:『南北朝遺文』東北編第1巻266号・建武3(1336)年12月日付「茂木知貞軍忠状」(吉成尚親氏所蔵『茂木文書』)の端裏書に「正文とこいぬとの(=常犬殿)」とある。
*2:『大日本史料』6-2 P.774。【鎌倉幕府の滅亡・南北朝の内乱と須賀郷】/『宮代町史 通史編』P.178。
*3:『大日本史料』6-2 P.587。『南北朝遺文』関東編第1巻278号。
*4:『大日本史料』6-3 P.841。『南北朝遺文』関東編第1巻573号。
*5:『大日本古文書』家わけ第十四 第一. 熊谷家文書 P.210・211(二二五号)。
*6:松本一夫「南北朝初期における小山氏の動向 ―特に小山秀朝・朝氏を中心として―」(所収:『史学』55-2、三田史学会、1986年)P.120。
*9:小山氏政 - Wikipedia を参照。
*13:南北朝列伝 #小山朝郷 より。