小山秀朝
小山 秀朝(おやま ひでとも、1306年頃?~1335年)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初頭にかけての武将。
初めは得宗・北条高時の偏諱を受けて小山高朝(- たかとも)と名乗っていた。
小山秀朝の最期
人物の紹介記事としては異例だと思うが、最初に秀朝の晩年期の活動内容について史料で確認してみよう。
● 『増鏡』「久米の佐良山」:(元弘2年5月10日)「先帝の御供なりし上達部ども、罪重きかぎり、遠き国につかはしけり。洞院按察大納言公敏、頭おろして、しのびすぐれつるも、なほゆりがたきにや。小山の判官秀朝とかやいふもの具して、下野国へときこゆ。花山院大納言師賢は、千葉の介貞胤うしろみにて、下総へくだる。」
●『鎌倉大日記』:「建武二年七月先代余類相模守次郎時行蜂起、七月廿五日入鎌倉、渋川義季小山秀朝細川頼員〔ママ、正しくは頼貞か。〕討死、……」
●『続群書類従』所収「小山系図」小山下野守秀朝の注記:「属尊氏。建武二年七月十三日戦死於武州府中。」
●『系図纂要』小山判官秀朝の注記:「建武二年七ノ十三戦死于武蔵府中」
●『太平記』巻13「中前代蜂起事」:「……渋河刑部大夫・小山判官秀朝武蔵国に出合ひ、是を支んとしけるが、共に、戦利無して、両人所々にて自害しければ、其郎従三百余人、皆両所にて被討にけり。……」
●『梅松論』(『群書類従』第20輯 合戦部 所収):「同(建武2年)七月の初。信濃国諏方の上の宮の祝安芸守時継が父三河入道照雲。滋野の一族等高時の次男勝寿丸を相模次郎と号しけるを大将として国中をなびかすよし。守護小笠原貞宗京都へ馳申間。御評定にいはく。凶徒木曽路を経て尾張黒田へ打出べきか。しからば早早に先御勢を尾張へ差向らるべきとなり。かかる所に凶徒はや一国を相従へ。鎌倉へ責上る間。渋川刑部。岩松兵部。武蔵安顕原にをいて終に合戦に及といへども。逆徒手しげくかかりしかば。渋川刑部。岩松兵部両人自害す。重而小山下野守秀朝。発向せしむといへども。戦難義にをよびしほどに。同国の府中にをいて秀朝をはじめとして一族家人数百人自害す。」
最初に掲げた『増鏡』の記述は、鎌倉幕府滅亡前の元弘の乱における笠置山陥落の折に捕らえられた洞院公敏(出家して宗肇)が下野国に流刑となる際に、秀朝が同行したというものである*1。
他の史料ではその秀朝が、建武2(1335)年、信濃国で挙兵した北条時行らの軍勢に攻められて自害したことを伝えている(中先代の乱)*2。
▼中先代の乱の内容・時期等についてはこちらのページに掲載の史料で裏付けられる。
尚、幕府滅亡時に後醍醐天皇側に転じた秀朝は、建武政権下で下野守に任ぜられ、建武年間の間、下野国守護であったとされる。
小山秀朝の系図上での位置
こちら▲は、系図集としては比較的信憑性が高いとされる『尊卑分脈』に収録の小山氏系図である。前田家所蔵脇坂本を底本とする、吉川弘文館より刊行の「国史大系」本に拠ったものであるが、秀朝と氏政については別説も紹介されている(※「秀朝、按正宗寺本…」および「氏政、按系図纂…」以下の小文字の注記は本来ページの上部(ヘッダー)に書かれているものを都合上移したものなので、本来の系図には記載されていないことに注意して頂きたい)。
この図で「小山秀朝」に該当するのは、①「本名秀ー」と注記される貞朝、②貞朝の長男・秀朝、③「改秀朝 又改朝氏」と注記される朝郷、の3名である。前節に紹介した史料で見る限り、最終的な名乗りが「秀朝」であったと考えるべきであろうから、ひとまず該当し得るのは②のみである。
しかし、②が父である貞朝(①)の初名を名乗り、更に甥の朝郷(③)までもが一時期同名に改めていたとするのはどうも違和感があり、朝郷が「秀朝」の後に従兄弟と同名の「朝氏」に再改名したというのは不自然と言わざるを得ない。加えて、②の秀朝が任官したはずの「下野守」は、弟の高朝の項に書かれている。やはりこの系図は何かしらの混乱を来しているのではないかと思われる。
加えて「秀朝」を称していた貞朝の注記を見ると、同じく「下野守」であったことの他、「徳治二ー関東下向之時頓死」(=1307年死去)とも記されることから、先行研究における史料上での「小山判官」・「小山下野守」の人物比定に際しても混乱が生じることもあった。これに関して、次の2点の史料を確認しよう。
α:元亨3(1323)年10月27日:北条貞時十三回忌法要において「小山下野前司」が銭百貫文を寄進(『円覚寺文書』所収「北条貞時十三年忌供養記」*3)
β:元徳2(1330)年10月1日「小山下野前司他界 貞朝 四十九」(『常楽記』)
前述の『尊卑分脈』の記載を採用したのか、貞朝が既に亡くなっているとしてαでの「小山下野前司」を秀朝とする見解もあった*4。しかし、当時の過去帳であるβを否定する根拠は無く、通称名の一致と年代の近さからして、αでの「小山下野前司」=貞朝と判断して間違いなかろう*5。「下野前司(=前下野守)」という通称名から、1323年の段階では既に下野守を辞していたことが窺え、再任することなく1330年に亡くなったことも分かる。
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従って、鎌倉幕府滅亡後の「小山下野守(秀朝)」が貞朝であることはあり得ず、その次代を指すと考えるべきである。
それを踏まえた上で、次の史料を確認しておきたい。
●『元弘日記裏書』*6:「今年建武ニ 七月信濃国凶徒蜂起襲鎌倉直義没落護良親王遇 藤原高朝按小山氏於武蔵国府自害……」
●『南方紀伝』*7:「西園寺公宗余党相模次郎時行、去る三月より信州にて蜂起。……(中略)……渋川刑部大輔、小山判官高朝、細川頼員、武蔵国に出て合戦。官軍敗北。小山高朝、府中に於て自害。」
時期や内容を見れば、前節に紹介した中先代の乱についての記述であることは明らかである。ところが、武蔵国府中(現在の府中市に相当するが、本来は国府の所在地を意味する)に於いて自害した人物の名は「高朝」となっており、まさに冒頭で紹介の他史料での「小山秀朝」の最期に一致する。従って、高朝=秀朝 と判断される。
前掲の『尊卑分脈』では改名前後の同人であるはずの高朝と秀朝を、兄弟として別人としてしまっていたのである*8。わざわざ改名する理由を考えれば、秀朝は高朝の改名後の人物とすべきであろう。鎌倉幕府滅亡後のこの頃、得宗・高時からの偏諱と思われる「高」の字を棄てて改名する者が多く、高朝(秀朝)もその一人だったのである。
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すると『尊卑分脈』で別々に書かれていた、秀朝の子・朝氏と、高朝の長男・朝郷(のち朝氏) も同人ということになる。実際の史料で確認してみると「朝氏」のちに「朝郷」を名乗っていたことが分かり*9、初め足利尊氏の偏諱を受けていたのを、後に改めたと判断される(従って『尊卑分脈』小山朝郷の項での改名の順番は誤りである)。秀朝・朝郷という改名後の名前に着目すると、祖先・藤原秀郷にあやかったものと推測できよう。
小山秀朝の活動 ―鎌倉幕府滅亡前後の家督として―
元徳2(1330)年に父・貞朝が亡くなってから、建武2(1335)年の中先代の乱で自害するまでの秀朝の活動内容を辿ってみよう。
次に示す2つの表は、以前記事にて紹介した、元弘の乱における幕府軍のメンバーを記した史料である。
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〔表A〕「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』41巻32135号)
楠木城 | |
一手東 自宇治至于大和道 | |
陸奥守(大仏貞直) | 河越参河入道(貞重) |
小山判官 | 佐々木近江入道(貞氏) |
佐々木備中前司(大原時重) | 千葉太郎(胤貞) |
武田三郎(政義) | 小笠原彦五郎(貞宗) |
諏訪祝(時継カ) | 高坂出羽権守(信重) |
島津上総入道(貞久) | 長崎四郎左衛門尉(高貞) |
大和弥六左衛門尉(宇都宮高房) | 安保左衛門入道(道堪) |
加地左衛門入道(家貞) | 吉野執行 |
一手北 自八幡于佐良□路 | |
武蔵右馬助(金沢貞冬) | 駿河八郎 |
千葉介(貞胤) | 長沼駿河権守(宗親) |
小田人々(高知?) | 佐々木源太左衛門尉(加地時秀) |
伊東大和入道(祐宗カ) | 宇佐美摂津前司(貞祐) |
薩摩常陸前司(伊東祐光?) | □野二郎左衛門尉 |
湯浅人々 | 和泉国軍勢 |
一手南西 自山崎至天王寺大路 | |
江馬越前入道(時見?) | 遠江前司 |
武田伊豆守(信武?) | 三浦若狭判官(時明) |
渋谷遠江権守(重光?) | 狩野彦七左衛門尉 |
狩野介入道(貞親) | 信濃国軍勢 |
一手 伊賀路 | |
足利治部大夫(高氏) |
結城七郎左衛門尉(朝高) |
加藤丹後入道 | 加藤左衛門尉 |
勝間田彦太郎入道 | 美濃軍勢 |
尾張軍勢 | |
同十五日 | |
佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参 | |
同十六日 | |
中村弥二郎 自関東帰参 |
〔表B〕「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』41巻32136号)
大将軍 | |
陸奥守(大仏貞直)遠江国 | 武蔵右馬助(金沢貞冬)伊勢国 |
遠江守尾張国 | 武蔵左近大夫将監美濃国 |
駿河左近大夫将監(甘縄時顕)讃岐国 | 足利宮内大輔(吉良貞家)三河国 |
足利上総三郎(吉良貞義) | 千葉介(貞胤)一族并伊賀国 |
長沼越前権守(秀行)淡路国 | 宇都宮三河権守(貞宗)伊予国 |
佐々木源太左衛門尉(加地時秀)備前国 | 小笠原五郎阿波国 |
越衆御手信濃国 | 小山大夫判官一族 |
小田尾張権守(高知)一族 | 結城七郎左衛門尉(朝高)一族 |
武田三郎(政義)一族并甲斐国 | 小笠原信濃入道(宗長)一族 |
伊東大和入道(祐宗)一族 | 宇佐美摂津前司(貞祐)一族 |
薩摩常陸前司(伊東祐光?)一族 | 安保左衛門入道(道堪)一族 |
渋谷遠江権守(重光?)一族 | 河越参河入道(貞重)一族 |
三浦若狭判官(時明) | 高坂出羽権守(信重) |
佐々木隠岐前司(清高)一族 | 同備中前司(大原時重) |
千葉太郎(胤貞) | |
勢多橋警護 | |
佐々木近江前司(六角時信) | 同佐渡大夫判官入道(京極導誉) |
(*以上2つの表は http://chibasi.net/kawagoe.htm#sadasige より拝借。)
表に含まれる通り「小山(大夫)判官」が従軍していることが見える。「大夫判官」とは検非違使庁の尉(三等官、六位相当)で、五位に叙せられた者を指す呼称である*10。既に亡くなっているので言うまでもないが、前下野守であった貞朝ではあり得ず、『尊卑分脈』に「使」(=検非違使)と付記される高朝が家督を継承したことが分かる*11。
そして、時期と通称名の一致から、前述の『増鏡』での「小山の判官秀朝」とも同人と判断される*12。既に述べた通り、これも元弘の乱に関連した内容だが、南北朝時代に成立したが故に、改名後の名前で書かれてしまっただけであろう。
その後、鎌倉幕府滅亡時における「小山判官」の動向は『太平記』に描かれている。
【史料C】『太平記』巻10「鎌倉合戦事」より
去程に、義貞数箇度の闘に打勝給ぬと聞へしかば、東八箇国の武士共、順付事如雲霞。……(中略)……搦手の大将にて、下河辺へ被向たりし金沢武蔵守貞将は、小山判官・千葉介に打負て、下道より鎌倉へ引返し給ければ、…(以下略)
関東の武士を結集させながら勢力を増大させた新田義貞の軍勢は、大多和義勝らの寝返りもあって連勝を重ね、更に倒幕側に転じる武士が続出した。小山判官(高朝・秀朝)もその一人として、千葉介(千葉貞胤)と共に金沢貞将を破ったことが記されている*13。
そして、鎌倉幕府滅亡の翌年に出された次の史料にも着目しておきたい。
【史料D】建武元(1334)年8月22日付「大膳権大夫某〔中御門経季カ〕奉書」(『茂木文書』)*14
(端書)「[ ] 小山下野守已遂其節之間、此御教書者、[ ] 渡、仍正文帯之者也 」
[ ] 茂木左衛門尉知貞代祐恵□□□〔申、下野〕国東茂木保事、重訴状如□〔此〕、□□〔且任 または 早任〕綸旨幷牒、可沙汰付祐恵之由□□〔先度〕□〔被〕仰下之処、干今不事行云々、[ ]□〔不〕日可被遂其節、若尚有[ ]任法、可加治罰、使節又遅□□□〔引者、可〕処罪科之状、依仰執達如件、
建武元秊八月廿二日 大膳権大□〔夫〕
大内山城入道殿
(※□ および [ ] は欠字部分、〔 〕はそれを補ったものを示す。)
この書状の端裏書には、東茂木保の茂木知貞代祐恵への打渡しを「小山下野守」が遂行した旨の記載がある。繰り返すが、これが貞朝であるはずはなく、秀朝に比定される*15。すなわち、鎌倉幕府滅亡後の建武政権下において、秀朝は亡き父の最終官途であった下野守に任ぜられたのである。この頃には「秀朝」に改名したものと思われるが、『元弘日記 裏書』では「高朝」と書かれている(前述参照)ことから、公家側の一部には伝わっていなかったのかもしれない。
秀朝の最期については第一節目に前述した通りで、『太平記』・『梅松論』(ともに軍記物語)では300人ほどの家来と共に自害したと伝えるが、その数字は強ち的外れでもないという*16。1330年で亡くなった時の貞朝の享年が49である(前述『常楽記』参照)ことからすると、この時の秀朝は30歳前後の若さであったと推測されている*17。嫡男の朝氏(朝郷)がまだ「常犬丸(とこいぬまる)」という童名の幼子*18でありながら、惣領の秀朝と一族家人の多くを失うこととなり、小山氏にとって大きな痛手となったのである。
脚注
*1:佐藤進一・新川武紀両氏はこれを秀朝の下野国守護在職を示す傍証として捉えられている。松本一夫「南北朝初期における小山氏の動向 ―特に小山秀朝・朝氏を中心として―」(所収:『史学』55-2、三田史学会、1986年)P.118 より。典拠は『小山市史 史料編中世補遺』142号 および 新川「下野国守護沿革小考」(所収:『栃木県史研究』21号)。
*2:前注松本氏論文、P.119。
*3:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号。
*5:注1前掲松本氏論文 P.118。湯山学「小山出羽入道円阿をめぐってー鎌倉末期の下野小山氏」(所収:『小山市史研究』三号)。
*6:元弘日記裏書 (1巻) - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム 5ページ目。
*7:日本歴史文庫. 〔1〕 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*8:『尊卑分脈』では他にも同様の例が見られる。例えば、北条時頼の弟として、同じ「遠江守」の官途を持つ時定、為時を載せるが、実際の書状での花押の一致から、時定が後に為時と改名した、同人であったことが判明している。
*9:注1前掲松本氏論文、P.120~125。
*10:大夫の判官(タイフノホウガン)とは - コトバンク より。
*11:注1前掲松本氏論文、P.118。
*12:前注同箇所。
*13:前注同箇所。
*14:『大日本史料』6-1 P.488。『栃木県史 史料編中世二』茂木文書 八号(P.78)。『小山市史 通史編Ⅰ 史料補遺編』P.12~13 一八号では、中御門経季による発給書状とする。宛名の「大内山城入道」は小山氏一門・結城時広の庶兄である大内宗重の子孫とみられ、『太平記』巻3「笠置軍事付陶山小見山夜討事」に笠置山攻めの際の幕府軍のメンバーとして見える「大内山城前司」の出家後の姿と推定される(注1前掲松本氏論文 P.119、註(9) より)。
*15:注1前掲松本氏論文、P.118。
*16:注1前掲松本氏論文、P.119。
*17:注1前掲松本氏論文、P.123 註(1)。仮に享年を30とした場合、1306年生まれとなり、初め「高国」と名乗った足利直義や、正和3(1314)年に9歳で元服した六角時信(ともに『尊卑分脈』による)と同い年となる。生年を多少前後させても元服時の得宗・執権は北条高時となるので、この点から言っても秀朝がその偏諱を受けた「高朝」と同人であることが裏付けられよう。
*18:注1前掲松本氏論文、P.120。