結城宗広
結城 宗広(ゆうき むねひろ、旧字表記:結城宗廣、1269年カ(1266年とも)~1339年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。
白河結城氏第2代当主。通称(官途)は弥七(孫七とする説も)、左衛門尉、上野介、結城上野入道。法名は道忠(どうちゅう)。
▲ 結城宗広画像(光明寺 蔵、江戸時代末期・富沢利兵衛 筆)
生年と烏帽子親について
暦応元/延元3(1338)年11月21日(西暦:1339年1月1日)に病没したと伝えられる*1。下の写真にあるように、結城神社の由緒書では享年が73歳(数え年、以下同様)であったといい、逆算すると文永3(1266)年生まれとなる。
(http://www.komainu.org/mie/tsu/yuuki/zyuisho.html より拝借)
これに対し『白河古事考 巻之三』所収「結城系図」(桑名図書館蔵)には「延元三年九月三日卒 年七十トナリ 左レバ文永六年(=1269年)ノ出生ナルベシ」と注記されていて*2矛盾してしまうが、いずれにせよ文永年間前半(1260年代後半)の生まれであったことは認められるのではないか。宗家当主の従兄弟・結城時広とほぼ同世代となるが、幾つかその裏付けとなる情報を示しておきたい。
まず、『太平記』巻20「奥州下向勢逢難風事」~「結城入道堕地獄事」*3によると次の通りである。
去る7月に新田義貞が北陸で戦死したとの訃報を受け意気消沈した南朝の人々の許へ宗広(道忠)が訪れ、奥州へ皇子を派遣しその者たちに恩賞を与えることで支持勢力を保つことを提案。これを聞いた後醍醐天皇以下左右に控える老臣ら全員が賛同し、急ぎ元服させた7歳の第7皇子・義良親王に北畠親房・春日顕信〔ママ〕*4・宗広をつけて奥州へ、新田義興(義貞の子)と北条時行を関東へ、第4皇子・宗良親王を東海へとそれぞれ派遣して各地方から京を目指す戦略を実行に移すべく、彼らは伊勢大湊から船団を組んで出発。しかし、遠江の沖で嵐に遭い、船団は散り散りになってしまったという。
宗広の乗った船は伊勢・安濃津(現・三重県津市)に吹き戻されて漂着し、10日ほど順風を待って奥州へ下る機会を窺っていたところで重病を患い、そのまま亡くなったと伝える。その際、次のように言って刀を抜き、それを手にしたまま歯ぎしりして死んだという。
「我已に齢七旬*5に及で、栄花身にあまりぬれば、今生に於ては一事も思残事候はず。只今度罷上て、遂に朝敵を亡し得ずして、空く黄泉のたびにをもむきぬる事、多生広劫までの妄念となりぬと覚へ候。されば愚息にて候大蔵権少輔(=結城親朝)にも、我後生を弔はんと思はゞ、供仏施僧の作善をも致すべからず。更に称名読経の追賁をも成すべからず。只朝敵の首を取て、我墓の前に懸双て見すべしと云置ける由伝て給り候へ。」
『太平記』は元々軍記物語であり、この描写は『平家物語』における平清盛の「あつち死(=熱死か)」のパロディともみられる*6ので、死に方に関しては場所なども含め*7多少なりとも脚色はあると思うが、舟で海上に出たこと自体は実際の史料でも確認できる*8ようで、70歳(もしくは70代)という宗広本人の発言についても特に否定する必要は無いのではないかと思う。
というのも、実際に2年前の延元元(1336)年4月2日付で道忠(宗広)が「孫子七郎左衛門尉顕朝」に向けて譲状を発給していることが確認できる*9からである。顕朝は古系図でも孫(親朝の子)として確認でき*10、元服済みであるだけでなく左衛門尉に任官もしているから若くとも20歳程度には達していたと思われ、その祖父として宗広が延元年間に70歳近くであったというのは十分妥当と言えるだろう。
もう一つ、「宗広」の名に着目しておきたい。元亨元(1321)年12月17日のものとされる「相馬重胤申状」(後述【史料2】)には、「御使岩城二郎・結城上野前司」が「相馬五郎左衛門尉師胤分領三分一」を御内人・長崎思元へ打渡したことが記されており*11、また津軽田舎郡の河辺郷・桜庭郷など各地の得宗領の地頭代であった(「結城道忠(宗広)知行得宗領注文」『伊勢結城文書』/『白河結城文書』)ことから、鎌倉幕府滅亡前は御家人でありながら事実上得宗被官(御内人)化していたことは既に指摘されている*12が、名前の面でも「広(廣)」が祖父・朝広、父・祐広と継承されてきた通字であるのに対し、「宗」は文永年間当時の得宗/第8代執権・北条時宗*13の偏諱と考えられる。1269年生まれを採っても時宗が亡くなった弘安7(1284)年4月*14当時16歳となり、元服は10代前半で行われるケースが多かったから、時宗執権期間内に加冠の儀を行ったことは確実とみて良いだろう。但し、幼い宗広自らが加冠役を指名するというのは流石にあり得ないだろうから、これは父・祐広の意向によるものではないかと思われる。
というのも、荒川善夫氏の見解によると、同じ頃結城氏宗家を継いだ祐広の兄・結城広綱が得宗家への従属を示す一環として、我が子・時広の元服に際し時宗にその烏帽子親となるよう願い出たのではと推測されている*15。 よって、弟である祐広も対抗して同様の行為を行ったと考えることは十分に可能であろう。
こうして祐広の系統(白河結城氏)は、宗家である広綱流に対抗すべく同様に得宗家との繋がりを構築し、他にも家祖・結城朝光以来の仮名「七郎」を代々名乗るなどして勢力を伸ばしていき、やがて建武政権から結城氏惣領として公認を受けるようになっていくのである*16。
鎌倉末期における宗広とその出家時期
本節では、鎌倉時代当時の史料(書状類)を中心に、宗広に関するものを紹介する。また、その呼称の変化から出家の時期についても明らかにしたいと思う。
●【史料1】文保2(1318)年2月16日付「関東下知状」(『白河文書』)*17:「……爰如白河上野前司宗広今年 文保二 正月如請文者、……」
*これが史料上における初見か。この当時50代にして上野介(前掲【図A】より)を退任済みであること、結城惣領家と区別されたのか白河氏呼ばわりされていたことが窺える。
●【史料2】(元亨元(1321)年12月17日カ)「相馬重胤申状」(『相馬文書』)*18:「……御使岩城二郎・結城上野前司……」
●【史料3】(元亨3(1323)年)『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』):同年10月27日の故・北条貞時13年忌供養において「白河上野前司」が銭100貫文を進上*19。
●【史料4】(元亨4(1324=正中元)年)9月26日付「結城宗広書状」(『越前藤島神社文書』):発給者「宗廣」の署名と花押*20
(*福井県の文化財 | 結城宗広自筆書状 より拝借)
宗広自筆の書状として貴重な史料であり、内容としては同年、正中の変の知らせを受けた宗広が、上野七郎兵衛尉(=長男・親朝か*21)に書き送ったものである。
*『鎌倉遺文』第40巻31512号にある宗広書状(『伊勢藤島神社文書』所収とする)も全く同文であり、恐らくはこの【史料4】と同一物(重複掲載)であろう。
★この間に出家か(法名: 道忠)。
*タイミングとしてあり得るとすれば、正中3(1326=嘉暦元)年3月13日の得宗・北条高時の出家*22に追随した可能性が考えられよう。
●【史料5】嘉暦4(1329)年3月23日付「関東御教書」(『陸奥飯野文書』)*23:宛名に「白河上野入道殿」
●【史料6】(元弘元(1331)年)『太平記』巻3「笠置軍事付陶山小見山夜討事」:同年の元弘の変(笠置山攻め)に際し、幕府軍の一員として「結城上野入道」 が従軍。
大将軍 | 大仏陸奥守貞直 | 大仏遠江守 | 普恩寺相摸守基時 | 塩田越前守 | 桜田参河守 |
赤橋尾張守 | 江馬越前守 | 糸田左馬頭 | 印具兵庫助 | 佐介上総介 | |
名越右馬助 | 金沢右馬助 | 遠江左近大夫将監治時 | 足利治部大輔高氏 | ||
侍大将 | 長崎四郎左衛門尉 | ||||
侍 | 三浦介入道 | 武田甲斐次郎左衛門尉 | 椎名孫八入道 | 結城上野入道 | 小山出羽入道 |
氏家美作守 | 佐竹上総入道 | 長沼四郎左衛門入道 | 土屋安芸権守 | 那須加賀権守 | |
梶原上野太郎左衛門尉 | 岩城次郎入道 | 佐野安房弥太郎 | 木村次郎左衛門尉 | 相馬右衛門次郎 | |
南部三郎次郎 | 毛利丹後前司 | 那波左近太夫将監 | 一宮善民部太夫 | 土肥佐渡前司 | |
宇都宮安芸前司 | 宇都宮肥後権守 | 葛西三郎兵衛尉 | 寒河弥四郎 | 上野七郎三郎 | |
大内山城前司 | 長井治部少輔 | 長井備前太郎 | 長井因幡民部大輔入道 | 筑後前司 | |
下総入道 | 山城左衛門大夫 | 宇都宮美濃入道 | 岩崎弾正左衛門尉 | 高久孫三郎 | |
高久彦三郎 | 伊達入道 | 田村刑部大輔入道 | 入江蒲原一族 | 横山猪俣両党 |
(表は http://chibasi.net/rekidai43.htm より拝借)
付記:初期白河結城氏当主の世代・烏帽子親の推定
最後に、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての白河結城氏当主の世代と烏帽子親の推定を試みたいと思う。まず結論から述べれば次の通りである。
● 結城宗広(1266~):1280年頃、執権・北条時宗より一字拝領か。
● 結城親広(1290頃?~):のち親朝。北畠親房(1293-1330出家)より一字拝領か。
● 結城顕朝(1316頃?~):北畠顕家(1318-1338)より一字拝領か。
宗広については前述の通りである。その孫・顕朝についても延元元(1336)年の段階で左衛門尉任官が確認できることから若くて20歳位と推測されることは既に述べたから、祖父・宗広との年齢差も考慮してその生年は1310年代半ば位であったと推測される。
よって、その間となる親広(親朝)については弟・結城親光と揃って1290年代の生まれと推定可能である。兄弟共に「親」字を有しており、「広」・「光」が結城朝光・朝広父子に由来することからしても烏帽子親からの一字拝領であることは確実と言って良いだろう。
「親」字を与え得る人物は、のちの顕家―顕朝の関係からして、顕家の父・北畠親房しかいないのではないか*24。但し、これが正しければ1300年代~1310年頃に烏帽子親子関係が成立したと推測され、後醍醐天皇による倒幕計画以前から北畠・結城両氏間での交流があったことになる。
宗広が建武政権から結城氏惣領として認められたことは前述の通りだが、その背景には以前から続く北畠氏との関係があったのではないかと思う。事実上得宗被官化していたのは宗広だけでなく、得宗の偏諱を受けていた宗家(時広―貞広―朝高〈朝祐〉)も同じであり*25、それだけでは惣領に昇り詰める要素になり得ないだろう。宗広は得宗家と良好な関係を保つのと並行して、北畠氏とも個人的な関係を築き*26、これが惣領として認められる結果に繋がったのではないかと思う*27。
(参考記事)
(参考ページ)
● 結城宗広
● 長谷川端「結城宗廣と能『結城』」(所収:『文化科学研究』第12巻第1号、中京大学文化科学研究所、2001年)
脚注
*1:『大日本史料』6-5 P.223~の各史料を参照のこと。
*2:白川古事考 巻ノ三(全)廣瀬典編<桑名図書館蔵>に触れる ー conparu blog より。
*3:「太平記」結城入道堕地獄事(その1) : Santa Lab's Blog、太平記巻第二十(その二)を参照。
*5:「七旬」とは「70歳」の意(→ 七旬(しちじゅん)とは - コトバンク)。
*6:南北朝列伝 #結城宗広 より。
*7:これについては 結城宗広 - Wikipedia を参照のこと。
*8:前注に同じ。
*10:【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia 参照。
*11:相馬氏惣領 相馬重胤 より。
*12:相馬氏惣領 相馬重胤。『新編弘前市史』通史編1(古代・中世) P.553。『裾野市史』第二巻 資料編 古代中世(裾野市)中世編「南北朝・室町時代」P.215。
*13:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*14:前注同箇所。
*15:荒川善夫 「総論Ⅰ 下総結城氏の動向」(所収:同氏編著 『下総結城氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻〉戎光祥出版、2012年)P.11。
*17:『鎌倉遺文』第34巻26549号。
*18:『鎌倉遺文』第36巻27918号。
*19:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.709。
*20:『鎌倉遺文』第37巻28835号。書き下し文は 年代記元弘元年 を参照。
*21:南北朝列伝 #結城親朝 より。【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図I】親広(改親朝)の注記にも「白河七郎」・「左兵衛尉」とある。
*22:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*23:『鎌倉遺文』第39巻30546号。
*24:相馬氏惣領 相馬親胤(外部HP)でも、親胤も含めて同様の見解が示されている。
*25:川村一彦『結城氏一族の群像』アマゾン電子書籍紹介 より。
*26:北畠親房については、正中の変、元弘の乱といった後醍醐天皇の倒幕運動に関わった形跡は特に確認されておらず、むしろ後醍醐も幕府が主導の両統迭立によって即位したのであるから、鎌倉幕府とも特に険悪な関係ではなかっただろう。故に、宗広が親房と関係を築いていたとしても幕府(北条氏)にとっては何ら問題なかったものと思われる。
*27:反対に宗家当主の朝祐は足利高氏と共に倒幕側に傾いて貢献したにもかかわらず、建武政権からは冷遇されていたと言われるが、この見解に従えば納得がいくと思う。