三浦貞連 (因幡守)
三浦 貞連(みうら さだつら、1290年頃?~1336年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人。
「横須賀系図」(『諸家系図纂』11上所収)*1などによると、父は三浦時明(安芸守)、母は同族・大多和行秀の娘。初名は三浦貞明(さだあき)。通称は六郎左衛門尉、因幡守。曽祖父の佐原時連が宝治合戦の恩賞として相模国三浦郡横須賀郷(現・神奈川県横須賀市)を与えられたことに因み、先行研究では横須賀貞連(よこすか ー)*2、或いは時連の子・宗明の家系が杉本氏を称したことから杉本貞連(すぎもと ー)とも呼ばれる。
生年と烏帽子親の推定
●【図1】北条・平(長崎)・三浦(佐原) 3氏略系図
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こちら▲の記事でも紹介の通り、時連は、矢部禅尼(法名:禅阿)が北条泰時と離縁し、佐原盛連に再嫁した後に産んだ息子の一人である。禅阿が泰時との間に産んだ長男・北条時氏が建仁3(1203)年生まれである*3から、時連の生年は確実に同年より後で、初出の『吾妻鏡』文暦元(1234)年正月1日条の段階では兵衛尉に任官済み(同(佐原)六郎兵衛尉)で10代後半~20代に達していたと思われるから、1210年代前半であったと推測される。従って各親子間の年齢差を20歳と仮定した場合、貞連は早くとも1270年代の生まれと推定可能である。
この場合、同じく禅阿の玄孫にあたる得宗・北条貞時(1271年生まれ)とほぼ同世代となり、また元服は通常10代前半で行われることが一般的であったから、貞連の「貞」は貞時の執権期間(1284年~1301年)*4内に、その偏諱を受けたものと判断される。
但し貞連の生年はもう少し下るだろう。貞時の乳母父にして執事(内管領)でもあった平頼綱は1230年代前半~中ごろの生まれと考えられており*5、【図1】に示したように貞連の曽祖父にあたるから、同じように各親子間の年齢差を20歳と仮定すると、貞連は1290年代の生まれとなる。この場合でも元服当時の得宗は変わらず貞時となるから、その一字を拝領したと考えて問題無い。貞時が執権職を辞す正安3(1301)年までの元服の可能性が高いことや、後掲【史料2】にあるように1334年の段階で因幡守を退任済みであったことを考慮すれば、1290年頃の生まれとするのが妥当ではないか。
尚、元服時には祖父以来の通字「明」*6を用いて「貞明」と名乗ったが、理由は不明ながら後に曽祖父までの通字により「貞連」と改めたと伝えられる。
史料における因幡守貞連
以下、鈴木かほる氏のまとめ*7に従って、関連史料を列挙して紹介する。
●【史料2】(建武元(1334)年9月27日?)「足利尊氏行幸供奉随兵次第写」(『小早川家文書』):「大概」の一人に「三浦因幡前司貞連」*8。
◆関連史料:「足利尊氏随兵交名」(国立公文書館『朽木文書』)*9
一番 | 武田八郎次郎信明 | 十一番 | 小早川弥太郎 | 浅利太郎家継 | ||
二番 | 佐々木備中前司時綱 | 十二番 | 香川四郎五郎 | 二階堂丹後三郎 | ||
三番 | 千葉太郎胤貞 | 大高左衛門尉重成 | 十三番 | 香川左衛門尉頼行 | 何某 | |
四番 | 佐々木源三左衛門尉秀綱 | 小笠原七郎頼氏 | 十四番 | 南部弥六政氏 | 三浦秋庭平三秀重 | |
五番 | 野本能登四郎朝行 | 土肥佐渡次郎兵衛氏平 | 十五番 | 隠岐守兼行 | 海老名彦四郎秀家 | |
六番 | 宇津宮遠江守貞泰 | 上椙蔵人朝定 | 十六番 | 萩原四郎基仲 | 萩原七郎三郎重仲 | |
七番 | 二階堂信濃三郎左衛門行広 | 嶋津下野三郎師忠 | 十七番 | 日田次郎永敏 | 河野新左衛門尉通増 | |
八番 | 三浦因幡前司□□〔貞連〕 | 十八番 | 足立安芸守遠宣 | 嶋津三郎左衛門尉 | ||
九番 | 小笠原七郎次郎頼長(頼氏の子) | 田代豊前次郎 | 十九番 | 山名近江守兼義(政氏の子) | 土岐近江守貞経(頼貞の甥) | |
十番 | 橘 佐渡弥八公好 | 小早川又四郎亮景 | 二十番 | 細川帯刀直俊 | 吉見三河守頼隆(氏頼の父) | |
二十一番 | 富士名判官雅清 | 伊勢山城守元貞 |
(*表は http://chibasi.net/kyushu11.htm より)
*以下に掲げるうち、【史料3】・【史料5】は元々軍記物語、【史料4】の押紙は後世に付されたものであり「因幡守」は「前因幡守」の脱字もしくは省略と見なして良かろう。
●【史料3】『太平記』巻14「節度使下向事」*10(建武2年11月)、「箱根竹下合戦事」*11(同年12月):「三浦因幡守」
●【史料4】建武2(1335)年12月12日付「大炊正供着到状案」(『大友文書』)*12:「三浦因幡守 在判」の押紙あり。
「大友一族大炊四郎入道正供」が伊豆国佐野山で尊氏側に転じた際、その着到をチェックした書状の案文(控え)であり、貞連がそのチェックに当たったことが窺える。
●【史料5】『梅松論』下*13より
(建武3(1336)年)1月17日*14:両侍所佐々木備中守仲親*15、三浦因幡守貞連、三條河原にて頭の実検ありしかば千余よぞ聞えし。
1月27日*16:辰刻に敵二手にて河原と鞍馬口を下りにむかふ所に、御方も二手にて時を移さず掛合て、入替て数刻戦しに、御方討負て河原を下りに引返しければ、敵利を得て手重く懸りける。両大将御馬を進められて思召切たる御気色みえし程に、勇士ども我も我もと御前にすすみて防戦し所に、上杉武庫禅門(=兵庫頭憲房,法名:道欽)を始として三浦因幡守、二階堂下総入道行全、曽我太郎左衛門入道、所々に返合々々て打死(=討ち死に)しける間、河原を下りに七條を西へ桂川を越て御陣を召る。
京都賀茂河原での戦いにおいて、尊氏の母方伯父・上杉憲房(道欽)や二階堂光貞(行全)らと共に貞連も戦死したと伝えている。この『梅松論』は元々軍記物語ではあるが、同日に合戦があったことは実際の書状に「正月廿七日 賀茂河原合戦」(「本田久兼軍忠状」)、「正月廿七日 鴨河原合戦」(「和田助康注進状」・「山田宗久注進状」)などと書かれて裏付けられ*17、更に同年9月20日付の足利尊氏下文によれば「宇麻本荘」等の地頭職が合戦での討ち死にの賞として「三浦因幡前司貞連跡」(=後継者の三浦貞清を指すか)に宛行われている(『宮城県史』30所収『宝翰類聚』)*18から、貞連の戦死は史実と判断して良いだろう。前節での推定生年に従えば、享年47ほどであったことになる。
●【史料6】貞治元(1362)年12月18日付「三浦貞清寄進状」(『前田家所蔵文書』)*19
寄進
上総国飯富庄内本納・加納両郷事、
右件両郷、任亡父因幡守先年避状、且為天下安全、且為家門繁昌、永所奉寄進飫富大明神也、向後更不可有相違、至于子孫、敢不可依違者也、仍奉寄〔進 脱字か〕之状如件、
貞治元年十二月十八日 前安芸守平貞清(花押)
この史料の発給者「前安芸守平貞清」とその亡き父・因幡守は、『横須賀系図』・『系図纂要』などから三浦貞清とその父貞連に比定される*20。ここには貞連が生前に残した避状(この場合、領有権放棄の意向)に従って飯富大明神に本納・加納両郷を寄進したと記されている。
この【史料】からは貞清が貞治元年当時安芸守を既に辞していたことも窺え、40~50代には達していたと思われる。逆算すると1310~1320年代の生まれと推定可能で、その父・貞連の生年はやはり1290年頃の生まれとして妥当である。
(参考ページ)
脚注
*2:鈴木かほる 『相模三浦一族とその周辺史: その発祥から江戸期まで』(新人物往来社、2007年)P.280~281。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その4-北条時氏 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*5:梶川貴子「得宗被官平氏の系譜 ― 盛綱から頼綱まで ―」(所収:『東洋哲学研究所紀要』第34号、東洋哲学研究所編、2018年)P.115。
*7:注2鈴木氏著書 P.311。
*8:『大日本古文書』家わけ第十一 小早川家文書之二 P.169 二九四号。
*17:『大日本史料』6-3 P.19~25の各史料を参照のこと。
*18:『角川日本地名大辞典(旧地名編)』「宇摩荘(中世)」解説ページ より。
*19:『千葉県の歴史』資料編・中世4 P.500『尊経閣古文書纂』8。『大日本史料』6-24 P.648 および 上総国 - 「ムラの戸籍簿」データベース「望陀郡」> 本納郷・加納郷 の項 より。
*20:系図纂要|国史大辞典|吉川弘文館 - ジャパンナレッジ より。典拠は『日本歴史地名大系』第12巻「おふのしょう【飫富庄】」の項。