Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

三浦貞連 (因幡守)

三浦 貞連(みうら さだつら、1290年頃?~1336年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人

「横須賀系図(『諸家系図纂』11上所収)*1などによると、父は三浦時明(安芸守)、母は同族・大多和行秀の娘。初名は三浦貞明(さだあき)。通称は六郎左衛門尉、因幡守。曽祖父の佐原時連が宝治合戦の恩賞として相模国三浦郡横須賀郷(現・神奈川県横須賀市を与えられたことに因み、先行研究では横須賀貞連(よこすか ー)*2、或いは時連の子・宗明の家系が杉本氏を称したことから杉本貞連(すぎもと ー)とも呼ばれる。

 

 

生年と烏帽子親の推定

【図1】北条・平(長崎)・三浦(佐原) 3氏略系図

北条泰時
 ||―時氏―時頼―時宗―貞時
矢部禅尼
  ||―光盛―――娘
  ||―盛時    ||――貞宗
  ||―時連―――宗明
三浦盛連     ||―時明―貞明(貞連)―貞清
    平頼綱――娘
        └ 宗綱           

historyofjapan-henki.hateblo.jp

こちら▲の記事でも紹介の通り、時連は、矢部禅尼法名:禅阿)北条泰時と離縁し、佐原盛連に再嫁した後に産んだ息子の一人である。禅阿が泰時との間に産んだ長男・北条時氏建仁3(1203)年生まれである*3から、時連の生年は確実に同年より後で、初出の『吾妻鏡』文暦元(1234)年正月1日条の段階では兵衛尉に任官済み(同(佐原)六郎兵衛尉)で10代後半~20代に達していたと思われるから、1210年代前半であったと推測される。従って各親子間の年齢差を20歳と仮定した場合、貞連は早くとも1270年代の生まれと推定可能である

この場合、同じく禅阿の玄孫にあたる得宗北条貞時(1271年生まれ)とほぼ同世代となり、また元服は通常10代前半で行われることが一般的であったから、連の「」はの執権期間(1284年~1301年)*4内に、その偏諱を受けたものと判断される。

但し貞連の生年はもう少し下るだろう。貞時の乳母父にして執事(内管領)でもあった平頼綱は1230年代前半~中ごろの生まれと考えられており*5、【図1】に示したように貞連の曽祖父にあたるから、同じように各親子間の年齢差を20歳と仮定すると、貞連は1290年代の生まれとなる。この場合でも元服当時の得宗は変わらず貞時となるから、その一字を拝領したと考えて問題無い。貞時が執権職を辞す正安3(1301)年までの元服の可能性が高いことや、後掲【史料2】にあるように1334年の段階で因幡守を退任済みであったことを考慮すれば、1290年頃の生まれとするのが妥当ではないか。

尚、元服時には祖父以来の通字「明」*6を用いて「貞明」と名乗ったが、理由は不明ながら後に曽祖父までの通字により「貞連」と改めたと伝えられる。

 

 

史料における因幡守貞連

以下、鈴木かほるのまとめ*7に従って、関連史料を列挙して紹介する。

 

【史料2】建武元(1334)年9月27日?)「足利尊氏行幸供奉随兵次第写」(『小早川家文書』):「大概」の一人に「三浦因幡前司貞連*8

◆関連史料:「足利尊氏随兵交名」国立公文書館『朽木文書』)*9

一番 武田八郎次郎信明     十一番 小早川弥太郎 浅利太郎家継
二番 佐々木備中前司時綱     十二番 香川四郎五郎 二階堂丹後三郎
三番 千葉太郎胤貞 大高左衛門尉重成   十三番 香川左衛門尉頼行 何某
四番 佐々木源三左衛門尉秀綱 小笠原七郎頼氏   十四番 南部弥六政氏 三浦秋庭平三秀重
五番 野本能登四郎朝行 土肥佐渡次郎兵衛氏平   十五番 隠岐守兼行 海老名彦四郎秀家
六番 宇津宮遠江守貞泰 上椙蔵人朝定   十六番 萩原四郎基仲 萩原七郎三郎重仲
七番 二階堂信濃三郎左衛門行広 嶋津下野三郎師忠   十七番 日田次郎永敏 河野新左衛門尉通増
八番 三浦因幡前司□□〔貞連〕      十八番 足立安芸守遠宣 嶋津三郎左衛門尉
九番 小笠原七郎次郎頼長(頼氏の子) 田代豊前次郎   十九番 山名近江守兼義政氏の子) 土岐近江守貞経(頼貞の甥)
十番 橘 佐渡弥八公好 小早川又四郎亮景   二十番 細川帯刀直俊 吉見三河守頼隆氏頼の父)
        二十一番 富士名判官雅清 伊勢山城守元貞

(*表は http://chibasi.net/kyushu11.htm より)

 

*以下に掲げるうち、【史料3】・【史料5】は元々軍記物語、【史料4】の押紙は後世に付されたものであり「因幡守」は「因幡守」の脱字もしくは省略と見なして良かろう。

 

【史料3】『太平記』巻14「節度使下向事」*10建武2年11月)、「箱根竹下合戦事」*11(同年12月):「三浦因幡」 

【史料4】建武2(1335)年12月12日付「大炊正供着到状案」(『大友文書』)*12:「三浦因幡在判」の押紙あり。

「大友一族大炊四郎入道正供」が伊豆国佐野山で尊氏側に転じた際、その着到をチェックした書状の案文(控え)であり、貞連がそのチェックに当たったことが窺える。

 

【史料5】『梅松論』下*13より

建武3(1336)年)1月17日*14両侍所佐々木備中守仲親*15三浦因幡守貞連、三條河原にて頭の実検ありしかば千余よぞ聞えし。

1月27日*16辰刻に敵二手にて河原と鞍馬口を下りにむかふ所に、御方も二手にて時を移さず掛合て、入替て数刻戦しに、御方討負て河原を下りに引返しければ、敵利を得て手重く懸りける。両大将御馬を進められて思召切たる御気色みえし程に、勇士ども我も我もと御前にすすみて防戦し所に、上杉武庫禅門(=兵庫頭憲房,法名:道欽)を始として三浦因幡二階堂下総入道行全、曽我太郎左衛門入道、所々に返合々々て打死(=討ち死に)しける間、河原を下りに七條を西へ桂川を越て御陣を召る。

京都賀茂河原での戦いにおいて、尊氏の母方伯父・上杉憲房(道欽)二階堂光貞(行全)らと共に貞連も戦死したと伝えている。この『梅松論』は元々軍記物語ではあるが、同日に合戦があったことは実際の書状に「正月廿七日 賀茂河原合戦(「本田久兼軍忠状」)、「正月廿七日 鴨河原合戦(「和田助康注進状」・「山田宗久注進状」)などと書かれて裏付けられ*17、更に同年9月20日付の足利尊氏下文によれば「宇麻本荘」等の地頭職が合戦での討ち死にの賞として「三浦因幡前司貞連(=後継者の三浦貞清を指すか)に宛行われている(『宮城県史』30所収『宝翰類聚』)*18から、貞連の戦死は史実と判断して良いだろう。前節での推定生年に従えば、享年47ほどであったことになる。

 

【史料6】貞治元(1362)年12月18日付「三浦貞清寄進状」(『前田家所蔵文書』)*19

寄進

 上総国飯富庄内本納・加納両郷事、

右件両郷、任亡父因幡先年避状、且為天下安全、且為家門繁昌、永所奉寄進飫富大明神也、向後更不可有相違、至于子孫、敢不可依違者也、仍奉寄〔進 脱字か〕之状如件、

 貞治元年十二月十八日 前安芸守平貞清(花押)

この史料の発給者「前安芸守平貞清」とその亡き父・因幡守は、『横須賀系図』・『系図纂要』などから三浦貞清とその父貞連に比定される*20。ここには貞連が生前に残した避状(この場合、領有権放棄の意向)に従って飯富大明神に本納・加納両郷を寄進したと記されている。

この【史料】からは貞清が貞治元年当時安芸守を既に辞していたことも窺え、40~50代には達していたと思われる。逆算すると1310~1320年代の生まれと推定可能で、その父・貞連の生年はやはり1290年頃の生まれとして妥当である

 

(参考ページ)

 三浦貞連とは - コトバンク

 三浦貞連の位置づけ

 杉本氏 - Wikipedia

 

脚注

*1:『大日本史料』6-3 P.41

*2:鈴木かほる 『相模三浦一族とその周辺史: その発祥から江戸期まで』(新人物往来社、2007年)P.280~281。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その4-北条時氏 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*5:梶川貴子「得宗被官平氏の系譜 ― 盛綱から頼綱まで ―(所収:『東洋哲学研究所紀要』第34号、東洋哲学研究所編、2018年)P.115。

*6:この字は元々、祖先の三浦義明に由来するものであろう。

*7:注2鈴木氏著書 P.311。

*8:『大日本古文書』家わけ第十一 小早川家文書之二 P.169 二九四号

*9:『大日本史料』6-1 P.914

*10:『大日本史料』6-2 P.744

*11:『大日本史料』6-2 P.787792

*12:『大日本史料』6-2 P.780

*13:鎌倉以後の三浦氏 より。

*14:『大日本史料』6-2 P.1005

*15:佐々木大原氏系譜(2訂): 佐々木哲学校

*16:『大日本史料』6-3 P.16

*17:『大日本史料』6-3 P.1925の各史料を参照のこと。

*18:『角川日本地名大辞典(旧地名編)』「宇摩荘(中世)」解説ページ より。

*19:『千葉県の歴史』資料編・中世4 P.500『尊経閣古文書纂』8。『大日本史料』6-24 P.648 および 上総国 - 「ムラの戸籍簿」データベース望陀郡」> 本納郷・加納郷 の項 より。

*20:系図纂要|国史大辞典|吉川弘文館 - ジャパンナレッジ より。典拠は『日本歴史地名大系』第12巻「おふのしょう【飫富庄】」の項。