斯波家兼
斯波 家兼(しば いえかね、1308年~1356年6月13日)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。
活動の詳細については
を参照。本項では名乗りに関する考察を述べたいと思う。
改名の時期と理由
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斯波高経▲ の弟。初名は時家(ときいえ)。足利時家、足利家兼とも。
延文元(1356=正平11)年6月13日に49歳(数え年)で亡くなったと伝わり、逆算すると徳治3(1308)年生まれとなる。
建武3(1336)年8月17日の段階では、官職は式部丞*1で「時家」を名乗っていたことが確認される(【史料B】)が、翌建武4(1337)年には伊予守、更に建武5(1338)年5月11日までに「家兼」に改名していたことが分かる(【史料C】)。
斯波氏は、足利泰氏の長男・家氏を祖とする家柄で、恐らく源義家に由来すると思われる「家」を通字としていた。 改名後の「兼」の字は足利義兼から取ったものであろう。兄・高経の名乗りも源経基にあやかったものとみられ、この時期は祖先に名前の字を求めることは珍しくなかった。
さて、冒頭に掲げた過去記事において、家氏の系統(宗家―家貞―高経)が代々、北条氏得宗家(時宗―貞時―高時)の偏諱を受けていたことを指摘した。
高経の弟・時家の名乗りも、通字の「家」に対して「時」が烏帽子親からの偏諱と推測され、これを通字とする北条氏から賜ったものではないかと推測される。恐らく元服当時の執権であった高時からの一字であろう。鎌倉幕府滅亡から数年経ってからの改名ではあるが「時」字を棄てた背景には、北条氏との関係を断ち切る意図があったものと思われる*2。
備考
斯波家兼の子としては、以下の数名が伝わっている。
●兼頼 ―「頼」は源頼信・頼義に由来か。最上氏祖。
●頼持 ― 孫三郎(『尊卑分脈』)
●義宗 ― 従五位下。左近将監。又三郎。(『尊卑分脈』。天童氏の系図によれば、同じく『尊卑分脈』の里見氏系図に、里見義直の玄孫・義景の息子として載せる義宗と同一人物で、斯波氏から里見氏分家へ養子入りしたようである。)
・持義
・将頼 ― 従兄・斯波義将より一字拝領か。