斯波高経
斯波 高経(しば たかつね、1305年~1367年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将にかけての武将、守護大名。足利高経(あしかが ー)とも。
『続群書類従』所収「山野辺(山野邊)氏系図」*1の高経の注記に「貞治六年七月十三日卒。年六十三。」とあり、1367年に63歳(数え年)で亡くなったことが記されているが、このことは、次の画像で示す、中原師守の日記『師守記』*2の記載によって裏付けられる。
従って、逆算すると嘉元3(1305)年生まれとなる*3。
『尊卑分脈』等の系図類によると、足利泰氏の長男・家氏の系統は、宗家*4―家貞*5―高経と続き、各々得宗(北条時宗―貞時―高時)から偏諱を受けた形跡がある。高経も前述の生年に基づけば、1314~1319年あたりの元服と推測でき*6、当時の執権・北条高時から「高」の偏諱を許されたことは間違いないだろう。「経」の字は、先祖の経基王(源経基)の一字を使用したものと思われる*7。
元亨3(1323)年10月、北条貞時十三回忌法要に「足利殿」(=足利貞氏入道義観)、「足利上総前司」(=吉良貞義)とともに参加し、砂金五十両を進上する人物として「足利孫三郎」の名が確認できる*8。当時の足利氏一門で「孫三郎」を名乗り得る人物は斯波高経(『尊卑分脈』)であり、まだ官途を与えられていないことが、元服からさほど経っていないことを裏付けよう。これが史料における初見であり、前述の生年に従えば当時19歳の若さであるが、父・家貞(宗氏)の早世(『尊卑分脈』)によって既に家督を継承していたようだ*9。
以後の活動・生涯等については
を参照のこと。
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▲ 弟の家兼は初め「時家」と名乗っていたが建武5(1338)年には改名している。「時」の字を棄てており、北条氏の関連が推測される。それに対し、高経は上の『師守記』に掲げた通り、死ぬまで改名はしなかった。「高」字については改めた者もいれば(宇都宮高綱 [公綱]・小山高朝 [秀朝]・長井高冬 [挙冬] など)、改めない者もいた(河越高重・長井高広など)ので、特にわざわざ改名する必要性が無かったのかもしれないが、兄弟で対応が分かれていることは大変興味深い。
脚注
*1:山野辺氏は足利氏支流・斯波氏より分かれ出た最上義光の子・義忠を祖とする。
*2:画像右側の写真については、①は[師守記] 64巻. 巻60 紙背 - 国立国会図書館デジタルコレクション、②は[師守記] 64巻. 巻60 貞治六年七月 - 国立国会図書館デジタルコレクションより、各々該当部分を抜粋した。
*3:『師守記』による考察については、小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館、1982年)P.374 を参照。
*4:吉井功兒「鎌倉後期の足利氏家督」(所収:田中大喜 編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉、戎光祥出版、2013年)P.167。
*5:『尊卑分脈』には「本名宗氏」とあり、初め宗氏を名乗っていたと伝える。
*6:紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)の手法に従って、元服の年齢を10~15歳とした場合。ちなみに、同年生まれの足利高氏(尊氏)は1319年15歳での元服である。
*7:前田家所蔵訂正本を底本とする『尊卑分脈』〈国史大系本〉には家貞の母を「式部大夫平時継女」と載せ、その他の異本では時継を時経とする故に「経」字の由来を曽祖父・北条時経に求める説もある(http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/siba1.htm)が、時経を名乗ったこと自体も含め信憑性は認め難いので、新たな一説として掲げておきたい。平貞盛・平高望にあやかったとされる北条貞時―高時や、本文に掲げた小山秀朝、長井挙冬をはじめ、先祖の1字を取る命名法はこの頃よく見られた現象である。