塩田重貞
北条 重貞(ほうじょう しげさだ、1282年頃?~1333年5月22日?)は、鎌倉時代後期~末期の武将、御家人。北条重時の子・義政を祖とする塩田流北条時治(時春とも、義政の子)の子で、塩田重貞とも。『尊卑分脈』の北条氏系図上では「式部大夫」と注記される。
実名を見ると、北条氏の通字「時」*1を用いておらず、「重」が曽祖父・重時から取ったものであろうから、「貞」が烏帽子親からの偏諱と考えられる。これは得宗(第9代執権)北条貞時からの一字拝領であろう。
父・時治の生年は判明していない*2が、 祖父の義政が仁治3(1242)年生まれである*3ことから、現実的な親子の年齢差を考えれば、1262年頃よりは後と推定できる*4。これに従うと、重貞は早くとも1282年頃の生まれで、1290年代当時執権であった貞時(在職:1284~1301年)*5の加冠により元服したと考えて問題ないだろう。
尚、「貞」の偏諱を下(2文字目)に置くのは、北条氏一門の例だと名越公貞や名越朝貞、他の御家人だと足利家貞(斯波宗氏)*6や千葉胤貞など庶子や庶流の人物に多く見られる。恐らく時治の系統が塩田流北条氏の庶流となった*7 ことに起因するのではないかと思われる。
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脚注
*1:祖父の義政についても初め「時景」と名乗っていたと伝えられる(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その35-塩田義政 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照)。改名後の「義政」は自身の曽祖父・時政と祖父・義時の各々1字により構成されたものであろう。
*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その39-塩田時春 | 日本中世史を楽しむ♪ より。時治については「時春」とも伝えられるが、『尊卑分脈』のほか、鎌倉時代に成立の『入来院本 平氏系図』では「時治」となっており(→ 山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.10)、こちらに信を置くべきではないかと思われる。
*3:注1前掲同箇所。
*4:注2の『入来院本 平氏系図』は1316~1318年の間に作成・成立したとされ(→ 山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(上)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.4)、時治の項に「備中守」と記されるから、その当時、父・義政の駿河守任官年齢である29歳(注1同箇所より)は超えていたはずである。父の出家によりこの系統が没落していたことを考えると更に出世が遅れた可能性もあり、1260年代後半~1270年代には生まれていたのではないかと思う。この裏付けとして、父が弘安4(1281)年に亡くなったことが記され、弟の国時の項には「平左衛門入道(=平頼綱)没倒之時、浴本領勲功賞」とあり、国時が正応6(1293)年の平禅門の乱当時、合戦に参加できる年齢に達していたことが推測できる。或いは、時治の「時」が得宗・北条時宗からの一字拝領の可能性も考えられよう。
*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*6:北条得宗家と足利氏の烏帽子親子関係成立について - Henkipedia 参照。
*7:『尊卑分脈』では、義政の子として時治・国時を載せ、国時の傍注に「家督」と記される。すなわち、義政より家督を継いだのは国時であった。注2の『入来院本 平氏系図』でも同じ兄弟順で掲載されているので、時治が庶兄、国時が嫡弟であったと考えて良いだろう。母親の出自の違いにより国時が嫡男に指名されたのではないかと思う(→ 南北朝列伝 #塩田時治)。