足利高義
足利 高義(あしかが たかよし、1297年~1317年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。足利貞氏の長男で最初の嫡子。母は北条(金沢)顕時の娘・釈迦堂殿とされる。足利尊氏・足利直義の異母兄にあたり、子に足利安芸守、田摩御坊源淋、女子(上杉朝定室)、女子(武田信武室)がいたと伝わる。
足利氏宗家の当主として
【史料1】『鶴岡両界壇供僧次第』(『続群書類従』巻第105 所収)より一部抜粋
両界供僧一方
建久五年。足利上総介殿為御願。両界曼荼羅書供養。奉安置鶴岡。被擬両部而被定置二口供僧。内一口拝領。仍建久五年十一月十三日御教書賜之。……(以下略)
寺 円定 蓮花坊 尾張律師
建保六戊寅七月十三得譲也。承久三年十月廿三日自足利殿安堵御判賜之。……(以下略)
寺 円弁 三位阿闍梨
文永七年庚午十月三日得譲。足利宮内少輔殿安堵御判賜之。
随三位法印静禅受三部印信等。弘安三庚辰二月十一日譲与。永仁二年十二月廿日足利讃岐守殿御判賜之。……長尾三郎左衛門尉光景*1息。……(以下略)
(前略)……乾元二葵卯五十八譲与。正和四十一十四足利左馬助殿安堵御判賜之。父者渋谷三郎次郎重方。母者渋谷二郎入道重弘女。……(以下略)
寺 定重 安芸僧都
元弘三葵酉三二譲与。同三年十一廿足利左兵衛督殿御判賜之。……(以下略)
この史料により、正和4(1315)年11月14日に「足利左馬助」が鶴岡八幡宮の僧・円重(えんちょう)に供僧職を安堵していることが確認できる。父・貞氏(法名:義観)は正安年間より「(足利)讃岐入道」と呼ばれていたから、この人物は『尊卑分脈』に「左馬助 早世」と注記される高義*2に比定される*3。
当時の鶴岡八幡宮の上宮東回廊には「足利上総介」=足利義兼が両界曼荼羅と一切経を納めた「両界壇」と呼ばれる区画があり、足利氏宗家では八幡宮の僧侶に依頼して供養を行っていたが、その供養を行う供僧の職の補任と安堵は宗家当主が務めていた。左馬助(高義)の大夫阿闍梨円重に対する行為はまさにそれであり、正和4年当時高義が足利氏嫡流の家督を継いでいたことが窺える*4。
生没年について
しかし、足利氏歴代当主の死没日がほぼ正確に記載されている『蠧簡集残編 六』所収「足利系図」によると、高義は文保元(1317)年6月24日に亡くなったらしく*5、翌2(1318)年9月17日付で家督を譲ったはずの父・貞氏が花押を据える形で再び安堵状を出している*6ことがこのことを裏付けよう。
その他、『前田本 源氏系図』に「左馬助、従五位下、早世廿一、」とあり、前述の没年から逆算すると永仁5(1297)年生まれと推定可能である*7。前述したように『尊卑分脈』にも「早世」*8の記載が見られるので、貞氏との年齢差を考えても1297年から大幅にずれることはないだろう。
「高義」の命名と北条高時
鎌倉時代の足利氏は「(義氏―)泰氏―頼氏―家時―貞氏」と代々北条氏得宗家の偏諱を受けており、先行研究でも説かれているように高義 ひいては弟の高氏(のち尊氏)・高国(のち直義)にも最後の得宗・北条高時の1字を受けた形跡が見られる。
高時は延慶2(1309)年1月21日に7歳で元服し*9、応長元(1311)年10月26日の父・貞時の死*10に伴い得宗家の家督を継承している。前述の生年に基づけばその頃高義は13~15歳と元服の適齢を迎え、曽祖父・足利頼氏が12歳*11、弟・高氏が15歳*12、ひいては高氏(尊氏)の孫にあたる足利義満が11歳*13で元服した例を踏まえても、高義は先に元服を遂げたばかりの高時を烏帽子親として元服を遂げたと判断される*14。
2文字目に、義氏以来の通字「氏」ではなく「義」が用いられた理由については、近年田中大喜氏が見解を出されている。
すなわち、8代執権・北条時宗の死後、霜月騒動や平禅門(平頼綱)の乱など、源氏将軍を擁立する動き(類似したもの含む)が度々起こっており、9代執権・北条貞時はその対策として足利氏(貞氏)を「源氏嫡流」として公認したと説かれており、貞氏の長男である高義の命名に清和源氏の通字「義」が使われていることをその証左とされている*15。これについては水野智之氏も賛同の見解を示されている*16。足利氏としても、歴代の当主が必ずしも「氏」字を使用したわけではなかったので、むしろ義氏以前の通字「義」(源頼義―義家―義国―足利義康―義兼―義氏)の復活は歓迎すべきことだったと考えられる。
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子女について
21歳の若さで亡くなった高義だが、他の系図類には子供がいたことを伝えるものがある。
まず、『続群書類従』第五輯上所収「足利系図」や『系図纂要』には高義の息子として安芸守某と田摩御坊源淋(げんりん)の記載がある*17。長男の足利安芸守は実名不詳だが、建武3(1336=延元元)年に叔父・尊氏が九州に敗走した折に奥州で戦死したとされる。次男の源淋は僧籍に入ったのであろう。
次に、下記の史料を見ておきたい。
二橋上杉家の当主であった上杉朝定*19の妻が他界した旨を伝える記事である。この女性は「将軍」=当時の征夷大将軍・足利尊氏(在職:1338年~1358年)と「武衛」=当時の左兵衛督・足利直義*20の姪であったと書かれているが、『尊卑分脈』等の系図類を見る限り、その親に該当するのは尊氏・直義の兄であった高義しかいない。従って朝定妻のこの女性も高義の娘(遺児)であったと判断される*21。
更に『甲斐国志』には、「生山系図」に拠って、武田信武が尊氏の姪を妻にしたことが記載される*22。管見の限り「生山系図」の出典は不明だが、『甲斐信濃源氏綱要』には信武の子・武田氏信の加冠役を足利貞氏が務めたとの記載が見られる*23ので、強ちあり得ない話でもないだろう。この信武妻は尊氏の兄・高義、または弟・直義が父親であったとみるべきであろうが、直義に娘がいたという史実は系図類も含めて確認できない。直義ぐらい名の知れた人物であれば、直接 "直義の娘" と書けば良いとも思われるので、やはりこの女性もまた、高義の娘(遺児)とみなすのが妥当と思われる。
彼らは高義の早世により貞氏や尊氏が養育していたのではないかと推測される。
(参考ページ)
脚注
*2:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*3:小谷俊彦「北条氏の専制政治と足利氏」、吉井功兒「鎌倉後期の足利氏家督」、前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(所収:田中大喜 編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉戎光祥出版、2013年)P.130・171・190。
*4:前注田中氏著書 P.171~172(吉井論文)、P.190~191(前田論文)。
*5:注3前掲田中氏著書 P.2・191・386。
*6:注3前掲田中氏著書 P.172(吉井論文)・P.212 註(57)(前田論文)によると、正和4年12月20日付「長幸連譲状写」(『松雲公採集遺編累纂』、『鎌倉遺文』第33巻25694号)には、のち文保2年9月17日付でその譲与を承認する意図で据えた貞氏の花押(→ 外題安堵(げだいあんど)とは - コトバンク 参照)が見られる。
*7:注3前掲田中氏著書 P.191(前田論文)。
*8:系図類における「早世」の注記は、20代前半以下の年齢で亡くなった場合に記されるケースが多かった。これについては 大仏高宣 - Henkipedia を参照のこと。
*9:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*11:足利頼氏 - Henkipedia 参照。
*12:足利尊氏 - Henkipedia 参照。
*13:『尊卑分脈』の「義満公伝」文中に「応安元年四十五元服。十一才加冠細川右馬助頼之朝臣」とある。
*14:高時は嘉元元(1303)年生まれで高義より年少であったが、本文で述べた通り慣例により7歳の若さで先に元服を済ませていた。烏帽子親子関係は本来、源頼朝―結城朝光のように実際の親子ほどの年齢の開きがあるものであったが、弟・高氏も高時より僅か2歳年下であり、この頃の偏諱行為は虚礼化が進んでいたとの指摘もある(→ 今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.50)。
*15:田中大喜「総論 中世前期下野足利氏論」(所収:注3前掲田中氏著書)P.24~25。
*16:水野智之『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』〈歴史文化ライブラリー388〉(吉川弘文館、2014年)P.59。
*17:清水克行「足利尊氏の家族」(所収: 櫻井彦・樋口州男・錦昭江編『足利尊氏のすべて』、新人物往来社、2008年)P.125~142。
*19:『尊卑分脈』等の上杉氏各系図類の朝定の項に「弾正少弼」とあるほか、実際の史料でも『園太暦』や『常楽記』に「上椙 [上杉] 弾正少弼朝定」とあるのが確認できる(→『大日本史料』6-14 P.417、6-16 P.341)。
*20:足利直義 - Wikipedia 参照。ちなみに「武衛」は兵衛府の唐名である(→ 武衛(ブエイ)とは - コトバンク)。
*21:小松茂美『足利尊氏文書の研究 Ⅰ 研究編』(旺文社、1997年)P.337~338。注3前掲田中氏著書 P.212 註(58)(前田論文)。
*22:『甲斐国志』下 - 国立国会図書館デジタルコレクション P.677(コマ番号340)参照。
*23:系図綜覧. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション。注14前掲今野氏論文 P.49・52 註(10)・P.55 表No.59。