北条煕時
北条 煕時(ほうじょう ひろとき、1279年~1315年)は、鎌倉時代後期の武将。鎌倉幕府第12代執権。父は政村流北条時村の子・為時。
初名は北条貞泰(さだやす)。実名(諱)は史料によって「熈時」(入来院本「平氏系図」など:後述参照)「凞時」(国史大系本『尊卑分脈』など) 「凞時」(『鎌倉年代記』など:後述参照) とも表記される。
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新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その47-北条熈時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)
本項では名乗りの変遷について紹介する。
『鎌倉年代記』(または『北条九代記』)応長元(1311)年条の凞時の項を見ると「本名 貞泰(さだやす)」とある*1。これは、鎌倉時代末期頃の成立とされる次の系図でも確認できる。
貞泰の項に「今者熈時(今は熈時)*3」と書かれており、貞泰と書かれた後に改名後の名前を追筆したのではないかと思われる。
よって、当初は北条貞泰と名乗っていたことが分かる。「泰」は北条泰時に由来する字、「貞」は得宗・北条貞時からの偏諱であろう。貞泰(煕時)は、貞時の娘を妻に迎えていた*4。
では「煕時」に改名したのはいつ頃であろうか。
再び『鎌倉年代記』を覗くと、正安3(1301)年条に
「八月廿二日引付頭 一 久時 二 宗泰 三 時家 四 凞時 五 宗秀」
と書かれているが、管見の限りこれが「凞時」という名の初出である。得宗・貞時が執権職を辞して出家しており、これに追随して出家した長井宗秀が翌年から「道雄」と書かれるようになっている*5ので、ここでの表記は当時の名乗りと考えて良いだろう。
冒頭前掲職員表によると生年は1279年とされ、ここから元服の年次を推定すると、1288~1293年となる。貞時執権期であり、偏諱を受けて「貞泰」と名乗るには妥当な時期と言える。1293年は左近将監となって叙爵した年であり、仮に同年での元服としても、1301年まで僅か8年である。特に貞時と対立したという史実は伝わっておらず、貞時執権期に「貞」の偏諱を改める理由は無いと思われるので、改名を行ったのも1301年頃と考えて良いだろう。従って、長井宗秀の出家と同様に、貞時出家に伴っての改名であったと推測される。
脚注
*2:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.11~12 より。
*3:漢文上で名詞の後に付いて主語を提示したり語勢を強めたりする「者」は「~は」と読み(『漢文学習必携 増補版』(京都書房、初版1999年、本項では2009年の第6刷を使用)P.102 より)、事実上現在使われる助詞の「は」と同様の働きをする。者字短語2 名詞+者 日本漢文の世界 kambun.jp、は (者の変体仮名) - Wikipedia も参照。
*4:嫡男・茂時の母が貞時の娘。新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その48-北条茂時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。