三浦頼盛
三浦 頼盛(みうら よりもり、1235年頃?~1290年代?)は、鎌倉時代の武将、鎌倉幕府の御家人。法名は道法。頼盛の「頼」は執権・北条時頼の偏諱だろう。
『吾妻鏡』における頼盛の活動
父・盛時は三浦氏の庶流・佐原氏の出身であり(後掲【三浦氏系図】参照)、『吾妻鏡人名索引』*1によれば、初めは「佐原五郎左衛門尉」と呼ばれていたが、宝治合戦で本家筋の三浦泰村一族が滅ぼされた1247年頃から「三浦五郎左衛門尉」と呼ばれるようになり、同年末からは三浦氏家督として「三浦介」を称して家の再興が許されている*2。
盛時から「三浦介」を継いだ嫡男・頼盛の活動も『吾妻鏡』において多く見られる。『吾妻鏡人名索引』*3に従って作成すると次のようになる。
【表α】『吾妻鏡』における三浦頼盛の活動
年 | 月日 | 表記 | 内容 |
建長3(1251) | 8.24 | 三浦介六郎 | 5代将軍・藤原頼嗣の由比ヶ浜での笠懸、犬追物に供奉。 |
康元元(1256) | 7.17 | 三浦介六郎頼盛 | 6代将軍・宗尊親王の山ノ内最明寺参詣の際の「御車網代庇」の一人。この時、父の三浦介(盛時)も同行。 |
8.16 | 三浦介六郎頼盛 | 将軍・宗尊の指名により流鏑馬の射手。 | |
11.23 | 三浦介盛時 | 父・盛時、北条時頼に追随して出家。 | |
正嘉2(1258) | 6.17 | 三浦介六郎左衛門尉 | 来たる鶴岡八幡宮での放生会の供奉人のリスト中に名前あり。 |
8.15 | 三浦介六郎頼盛 | 同放生会にて五位の随兵。 | |
文応元(1260) | 11.22 | 三浦介六郎左衛門尉頼盛 | 将軍・宗尊の二所詣での精進潔斎の際の「御輿」(SP役)。 |
弘長元(1261) | 4.25 | 三浦介六郎左衛門尉 | 極楽寺での屋敷での笠懸における射手の一人。 |
7.2 | 三浦介六郎左衛門尉 | 流鏑馬の役を兼ねるため、来たる放生会での随兵を辞退する旨を申し出るが認められず。 | |
8.15 | 三浦介六郎左衛門尉頼盛 | 鶴岡八幡宮での放生会にて先陣の随兵の1人。 | |
弘長3(1263) | 7.13 | 三浦介 | 将軍・宗尊の新御所への移徒の際の供奉人を所労により辞退。この時までに、既に出家した父と同じく三浦介となる。 |
8.9 | 三浦介頼盛 | 将軍・宗尊上洛の際の供奉人。 | |
文永2(1265) | 1.3 | 三浦介頼盛 | 越後入道勝円(=佐介時盛)の沙汰で行われた垸飯で弟・七郎(盛氏)と共に二の御馬を曳く。 |
建長3(1251)年8月24日条に、5代将軍・藤原頼嗣(九条頼嗣)の由比ヶ浜での笠懸、犬追物に射手として供奉する人物として「三浦介六郎」が見えるが、同書(P.527)ではこの人物比定を行っていない(すなわち誰なのか不明とする)。しかし、同年正月1日条、5月15日条に「三浦介盛時」とある上、前年・翌年にも「三浦介盛時」が登場する(P.294)ため、この頃の三浦介は盛時であったと分かる。
そして「三浦介六郎」とは「三浦介」の「六郎」(六男)を意味する通称であるから、この人物は三浦盛時の息子であることは確かである。康元元(1256)年7月17日条には「三浦介六郎頼盛」としてその諱(実名)が初めて現れるが、当時の三浦介も盛時であるから、建長3年の「三浦介六郎」も盛時の子・頼盛であることが分かる。従ってこれが史料における初見となる。
また、通称名の変化に着目すると、康元元(1256)年から正嘉2(1258)年の間に「左衛門尉」に任官し、弘長年間(1261~1263年)に「三浦介」を継いだことが窺える。
文永元(1264)年11月22日付「関東御教書」*4の宛名「三浦介殿」も頼盛で間違いなかろう。八幡宮の領所(あずかりどころ)が相模国大住郡古国府(現・神奈川県平塚市四之宮)の安居頭役(あんごとうやく)を怠った際に、頼盛がその沙汰を命ぜられたことを伝える*5。
また、文永10(1273)年のものとされる5月13日付「豊後高田荘地頭代盛実請文案」*6の「三浦介殿」、弘安8(1285)年9月晦日付『豊後国図田帳』*7に豊後国大分郡高田庄(現・大分県大分市)の地頭職と同庄内牧村の領家を兼ねる人物として記載がある「三浦介殿」*8も頼盛に比定される。
鈴木かほる氏によると、蒙古襲来に際し九州御家人を統率していた、鎮西東方奉行の豊後守護・大友頼泰の下で、博多湾の石築地の築造を分担していたという*9。元々頼泰とは"はとこ"の関係*10にあった。
烏帽子親について
「頼盛」の名に着目すると、「盛」は父・盛時から継承したものであるから、わざわざ上(1文字目)にしている「頼」が烏帽子親からの偏諱と考えられる。
そしてこの字は、初出の建長3年当時の将軍・九条頼嗣、または執権・北条時頼の偏諱であり、使用を許されている。では、どちらから授かったのであろうか?
頼盛以降の当主は「盛」字を使わず、義明より次第に遡る形で先祖に名字(名前の字)を求めたことが分かる(系図の緑字部分)。このような現象は北条貞時・高時父子、長崎氏嫡流*11など他家でも見られた。
そして、頼盛の前後の当主に着目すると、「時」の字は北条氏代々の通字を受けていることが推測され、更に高継も年代的に考えて北条高時からの一字拝領であることは確実であろう。
細川重男氏は、北条義時の「義」が三浦氏(義明 または 義澄)から受けたものと説かれており*12、実際に弟の時房は三浦義連の加冠により元服し初め時連と名乗っていた。義時の子・政村(のちの7代執権)は烏帽子親の三浦義村から「村」字を受けており、義村の子・泰村は北条泰時(義時の長男、政村の兄)の加冠を受けて「泰」字を授かった。
このように、元々から北条・三浦両氏間で烏帽子親子関係を結び、同じ字(偏諱)を共有することが盛んに行われており、義連の孫である盛時も北条氏(泰時か)を烏帽子親としたのではないかと推測される。実のところ盛時は、泰時の長男・時氏の異父弟(同母弟)であった。母の矢部禅尼が1203~1212年の間には泰時と離縁したという*13から、早くとも1200年代後半~1210年頃の生まれであったと思われ、元服当時の執権でもあった泰時から「時」字を許されたとみられる。
従って、頼盛の「頼」字も執権・北条時頼からの偏諱と判断して良いだろう*14。前述した大友頼泰(初名泰直)も時頼から一字を拝領したと伝わる*15。元服の時期は、時頼が執権および得宗家家督を継いだ寛元4(1246)年から、頼盛初出の建長3(1251)年8月までの間ということになる*16が、前述した盛時の生まれた推定時期との親子の年齢差の面でも妥当といえ、頼盛はおよそ1240年前後の生まれであったと思われる。
北条時輔次男の謀反計画
文永9(1272)年2月、8代執権・北条時宗の命により、その庶兄で六波羅探題南方であった北条時輔が、同探題北方・赤橋義宗により討伐された(二月騒動)が、正応3(1290)年11月、その遺児(次男)であった「北条二郎」なる者(実名不詳)が謀反を起こそうとして捕らえられ、斬首となる事件が起こった。以下4点の史料によって伝えられる*17。
【史料1】『鎌倉大日記』正応3年条
十一月時輔二男北条二郎被誅
【読み下し例】……時輔次男、三浦介入道に憑(よ)りて忍び来(く)、仍って之(これ)を搦め進ず、種々拷訊(ごうじん=拷問)を歴(へ)て、同十一月首を刎(は)ねらる。
【読み下し例】……時輔次男、秘(ひそか)に三浦介頼盛を頼(たより)て、謀叛の企て有る由(よし)聞る間、搦め進ぜければ、同月首を刎られけり。
この時、二郎某が後ろ盾として三浦頼盛を頼ったことも記されている。【史料3】から判断するに、出家していた可能性が高い。『吾妻鏡』での終見以降、弘安7(1284)年には得宗・8代執権の北条時宗が亡くなっているから、かつての父同様にこれに追随した可能性も考えられる。『諸家系図纂』所収「三浦系図」では法名を道法(どうほう)とする*18。
文脈からすると、頼盛はこの二郎を捕縛して幕府に引き渡していることが読み取れるが、頼盛も同調を疑われて同じく処刑されたとする説もある*19。一応次の系図ではそのように注記されている。
髙橋秀樹氏の解説によると、末裔を称するこの系図の作成者=三浦為時(紀伊藩家老)の延宝3(1675)年11月11日の巻末識語によれば、三浦義同までは伝記に基づき、その子・時綱(のち里見義通の偏諱を受けて通綱)から祖父の邦時(のち頼忠)までは邦時や旧臣の言説を編纂し、鎌倉や安房に人を派遣して資料を探したという*21。また髙橋氏は、中世前期の人物に付された注記の多くは伝承に基づくだけでなく、『大日本史』編纂のために作られた『浅羽本系図』に所収の三浦系図によって補われたと思われる箇所もあると説かれており*22、この情報はあくまで江戸時代当時の見解として扱いには慎重になるべきである。
ここで考えるべきなのは「搦」(捕縛)された対象が、二郎なのか、或いは二郎・頼盛の両名なのかという点であろう。しかし「搦め進ぜる」(捕縛して差し上げる/奉る)という表現からすると、この主語(すなわち北条二郎を捕縛したの)は頼盛なのではないかと思う。自身を頼ってきた北条二郎を頼盛が捕縛し、幕府方に引き渡したのであって、頼盛が謀反に同調していたということは、【史料1】~【史料4】の史料群からは読み取れないように思われる。よって、本項では1290年刑死説を否定しておきたい。
頼盛死没時期の推定
但し、前節の結論はあくまで死因について指摘したものであり、1290年頃の死去そのものを否定するものではない。前述の推定に従えば、当時の頼盛は "初老" の年齢だったことになり、鎌倉時代当時においては4, 50代で寿命を終えることも珍しくは無かった。
結論から言えば、貞時が得宗の座にあった期間(1284~1311年)内に頼盛は亡くなったと考えられる。その根拠として、まずは次の史料をご覧いただきたい。
【史料6】延慶2(1309)年8月24日『将軍家政所下文』(『宇都宮文書』)*23
可令早三浦介時明法師法名道朝領知村井小次郎知貞跡事、
右、為出雲国金澤郷田地替、所被充行也者、早守先例、可致沙汰之状、所仰如件、以下
延慶二年八月廿四日 案主菅野
令左衛門少尉藤原 知事家
別当相模守平朝臣*(花押)
陸奥守平朝臣*(花押)
(http://chibasi.net/miurasoryo8.htm より拝借)
この書状は、延慶2(1309)年8月24日、将軍・守邦親王の将軍家政所よりの下文として、それまで三浦氏が地頭職を務めていた出雲国金沢郷田地の替地として「村井小次郎知貞跡」が宛がわれたことを記すものである。この時の三浦氏当主は頼盛の子・時明(ときあき)に移っていることが窺え、更に時明が「道朝(どうちょう)」と号して既に出家していたことも分かる。この当時の段階で「三浦介入道」と呼ばれる人物が2人もいたとは考え難く、頼盛は既に故人であったと判断される。
また、次の史料にも着目しておきたい。
【史料7】『鎌倉年代記』裏書・嘉元3(1305)年条 より
今年嘉元三…(略)…四月…廿三日、子刻、左京権大夫時村朝臣誤被誅訖、子息親類脱殃訖、五月二日、時村討手先登者十二人被刎首、和田七郎茂明、預三浦介入道、使工藤右衛門入道*、茂明逐電了、……(以下略)
【史料6】より遡ること数年、いわゆる嘉元の乱についての史料であるが、当時の連署・北条時村襲撃者の一人であった親戚の和田茂明(しげあきら、中条茂明)を預かる人物として「三浦介入道」の名が見られる。頼盛が北条二郎の事件から更に15年存命で、時明が出家していなければ、この入道が頼盛である可能性も出てくるが、年代的な近さを重視して【史料5】の時明がこの頃既に出家していたと考える方が妥当であろう*25。よって、頼盛の死去はこの当時より更に遡ると考えて良いと判断される。
以上の考察により、頼盛は1290~1300年代前半の間には亡くなったと推測される。死因は刑死ではなく、病没か老衰の類ではないかと思われる。
脚注
*1:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.294「盛時 三浦」の項。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。
*2:鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史 その発祥から江戸期まで』(新人物往来社、2007年)P.249。
*3:注1前掲『吾妻鏡人名索引』P.428「頼盛 三浦」の項。
*4:『榊葉集』所収、『鎌倉遺文』第12巻9184号。
*5:注2前掲鈴木氏著書、P.250。
*6:『書陵部所蔵八幡宮関係文書25』所収、『鎌倉遺文』第15巻11260号。
*7:内閣文庫所蔵。『鎌倉遺文』第20巻15701号。
*8:渡辺澄夫「二豊の荘園について(一) ―豊後国図田帳を中心として―」P.58。
*9:注2前掲鈴木氏著書、P.258。
*10:両者とも佐原義連の曾孫。頼泰の母が佐原盛連の兄弟・家連の娘(=盛時の従兄弟)である。注2前掲鈴木氏著書 P.259に掲載の系図より。
*11:長崎高重 - Henkipedia を参照。
*12:細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史 ―権威と権力―』〈日本史史料研究会研究選書1〉(日本史史料研究会、2007年)P.17。
*13:矢部禅尼 - Wikipedia を参照のこと。
*14:三浦介頼盛(外部リンク)では将軍・頼嗣からの偏諱とするが、系図に示した通り、父の盛時、子の時明は北条氏の通字を拝領したとみられるので、間の頼盛だけが将軍を烏帽子親にしたというのは現実的ではない。盛時流が事実上得宗被官化していたことも考えれば、得宗からの一字拝領と捉えるべきである。
*15:鎌倉時代の元服と北条氏による一字付与 - Henkipedia 参照。
*16:「頼」の字は当時の将軍・九条頼嗣の偏諱でもあるが、時頼の「頼」は頼嗣の父・頼経から賜ったものであり、『吾妻鏡』建長2(1250)年12月3日条からは自身の邸宅で元服を遂げた六角頼綱に一字を与えた形跡が確認できる(→ 六角頼綱 - Henkipedia 参照)ので、時頼が将軍に配慮せず「頼」の字を与えることは特に問題視されなかったようである。
*19:注2前掲鈴木氏著書、P.275(典拠は『保暦間記』)。三浦介頼盛(外部リンク)。海賊三浦一族 小説 歴史・時代 - 魔法のiらんど(同前)。
*20:『新横須賀市史』資料編 古代・中世Ⅱ(横須賀市、2007年)P.1124。
*22:前注に同じ。
*23:『鎌倉遺文』第31巻23755号。
*24:この頃の相模守・陸奥守については 『金沢文庫古文書』324号「金沢貞顕書状」の年月日比定 について - Henkipedia を参照。
*25:注2鈴木氏著書 P.300でも和田茂明を預かった人物を三浦時明としている。同書P.301では、時明の孫・高継と茂明の子・茂継を「継」字を共有する烏帽子親子関係にあったと説かれているが、時明と茂明も「明」字の共通からして(疑似的な)烏帽子親子関係を結んだのではないかと思う。茂明は当初「茂貞」と名乗っていたが、髙橋氏は得宗・貞時の偏諱を避けての改名と捉えられている(高橋『三浦一族の研究』所収「越後和田氏の動向と中世家族の諸問題」第三節、吉川弘文館、2016年)が、同時に同じく得宗被官であった三浦介家にも接近しつつあったのかもしれない。茂明は逐電し斬首を逃れたが、「三浦氏が預かっていたなら三浦氏が逃がした」(→ Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス例文より)という見解もあるようだ。