Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

佐介貞尚

北条 貞尚(ほうじょう さだなお?*1 / さだひさ?)は、鎌倉時代後期の武将、御家人

 

系図類では、佐介流北条盛房 (1242-1297) *2の子、北条宣房の弟として記載され、佐介貞尚(さすけ ー)とも呼ばれる。父に同じく丹波守・従五位下に昇ったという。

以上『尊卑分脈』に記載の情報以外に、他の史料では確認できず、活動の詳細は不明である。

 

親子の年齢差を考えれば、早くとも1262年頃の生まれ、1270年代後半での元服と推定できる。しかし、実名の「」は弘安7(1284)年4月より得宗および第9代執権となった北条偏諱を許されたものと見受けられるので、もう少し遅らせて、1270年前半以降の生まれ、貞時が執権となって間もない頃の元服とすべきだろう

尚、系図によっては盛房の子、宣房の弟を「貞高(佐介貞高)」と載せるものもある*3が、『正宗寺本 北条系図』上で「丹波守」と注記されることから、漢字の類似も考慮して 貞高=貞尚 と判断される。どちらが正しいかは判断材料が無いので分からないが、以下も引き続き「貞尚」で記述することにする。

 

ところで、同じく『尊卑分脈』の北条氏系図では、宣房(のぶふさ)を兄、貞尚を弟として載せている。しかし、宣房は父・盛房の1字は継承しているものの、得宗・貞時の偏諱は受けておらず、「宣」の字から、時房系北条氏の嫡流として隆盛した大仏流北条氏時 または 宗を烏帽子親としたことが推測される。『尊卑分脈』で見る限り、宣房の官職が「左将監(=左近将監)」止まりであることからしても、丹波守(国守)にまで昇った貞尚が上位(=すなわち嫡男)の地位にあったのではないかと思われ、烏帽子親の違いに繋がっているのだろう。兄弟順が逆の可能性も考えられるし、或いは母親の身分の違いによるものか、宣房は庶兄だったのかもしれない。

 

北条時盛を祖とする佐介流北条氏は、貞時が得宗・執権職を継いで間もない弘安7(1284)年6月に佐介時国が、8月にはその伯父・佐介時光が、それぞれ流罪となったことにより没落していた。幸い、時国の息子たちは幼少のため難を逃れたようだが、代わって惣領的な役割を担っていたのが父の佐介盛房であった。

時房の系統全体で見ると、その地位は嫡流の大仏流北条氏に圧倒されていたが、盛房は評定衆引付衆となって存在感を示し、盛房―貞尚の2代に亘って丹波守(国守)任官を果たしている。貞尚については史料上で表立った活動が確認できないので、北条氏一門の中では変わらず存在感が薄かったことが窺えるものの、佐介流の中では比較的厚遇されていたと言え、事実上佐介流の惣領的立場にあったのではないかと思う。貞時との烏帽子親子関係が効いているのかもしれない。

 

但し『尊卑分脈』には貞尚の子の掲載はなく、一方、宣房には時継(左近将監)・時有(弥三郎)という2人の息子を載せる。貞尚の跡は、宣房の系統が佐介流の惣領を継いだのだろう。佐介時継は、1333年5月の鎌倉幕府滅亡時まで運命を共にしたと伝わる*4

 

脚注

*1:佐介流時盛系政氏派北条氏 #北条貞尚 より。

*2:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表」(基礎表)No.66「佐介盛房」の項より。

*3:『入来院本 平氏(北条氏)系図』(山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.21)、 『前田本 平氏系図』(前注細川氏著書 P.378)、『正宗寺本 北条系図』 。注1同箇所では別人で兄弟とする。

*4:佐介流時盛系政氏派北条氏 #北条時継 より。『正宗寺本 北条系図』に「元弘三五自害」とあるのが典拠か。