Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

大仏朝直

北条 朝直(ほうじょう ともなお)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将、御家人。北条氏一門で初代連署北条時房の嫡男(4男)。母は足立遠元の娘。大仏流北条氏の祖で大仏朝直(おさらぎ ー)とも。 

 

論稿としては異例だが、先に結論を述べる。

実名の「」は3代将軍・源実を烏帽子親として元服し、その偏諱を受けたものとみられる。既に従兄(伯父・北条義時の次男)が同じく実朝の加冠により元服して「朝時(=北条朝時名越朝時と名乗っていたので、同名を避けるため、もう片方の字には通字の「時」ではなく祖先に由来する「*1が用いられた。

 

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先行研究によれば、生年は1206年である*2。父・時房と同じ15歳(数え年、以下同じ)元服であれば1220年に行ったことになるが、前述の朝時など、従兄弟たち(義時の息子)の例を見れば低年齢化の傾向にあり、前年(1219年)に実朝が亡くなるまでに元服を済ませた可能性が高いだろう。朝時は朝直が生まれた年の10月に元服済みであり、前述のように推測することは十分可能である。

吾妻鏡』での初見は、建暦2(1212)年3月6日条朝直」とされる。前述の生年に従えば当時7歳のこの時までに元服を済ませたことになり、いささか早過ぎる感じも否めないが、後述する北条政村の例もあるので特に疑問視する必要は無いかもしれない。 

 

ここで確認しておきたいのが、兄たちの生年および『吾妻鏡』での初見記事である。烏帽子親に関する考察(推論)とともに次に示す。  

長兄・時盛

1197年生まれ*3

元仁元(1224)年6月29日条「掃部助時盛 相州一男」 *4

の烏帽子親は不明であるが、父・時房(初め時)の烏帽子親を務めた佐原義の甥(兄・杉本義宗の子)和田義(~1213年没)がその候補になるのではないかと思う。また、義連の嫡男は佐原といい、「」字の共通から時盛と烏帽子親子関係にあった可能性がある(義盛→時盛、時盛→盛連)。別の候補として、姉または妹が嫁いだ安達義景の父・景盛が考えられるが、他に安達氏が北条氏一門の烏帽子親を務めた事例は確認できない。いずれにせよ、時盛の烏帽子親が他氏御家人であったことは間違いなく(少なくとも将軍や執権からの一字拝領ではない)、次に示す弟・時村の名乗りを見ても、三浦氏一門が烏帽子親であったと思われる。 

次兄・時村

生年1198年か(異説として1205年*5

建保6(1218)年5月5日条「次郎時村*6

建保元(1213)年12月28日、三浦義の加冠により北条政(当時7)が元服を遂げている(『吾妻鏡』)が、政村が父・義時の1字を継承しなかったのは、「義」の場合だと烏帽子親と同名になり、また「時村」を名乗る人物が既にいて同名を避けた結果ではないかと推測される。該当し得る人物は政村より年長の北条時村(佐介時)であり、烏帽子親は同じく義ではないかと思われる。父兄に同じく三浦氏一門を烏帽子親にした可能性は高いのではないか。 

三兄・資時

1199年生まれ*7

承久元(1219)年7月19日条「相模三郎」。また翌年正月の記事で「相州息…三郎資時」の記述あり(後述参照)*8

わざわざ上(1文字目)に置いていることからも「資」字を与えた人物が烏帽子親であった可能性が高く、やはり一般の御家人であろう(将軍・執権は該当しない)。但し、父や2人の兄に同じ三浦氏一門では該当者なし*9。名乗りの面で「時●」型の兄たちに対し「●時」型であるのは、朝直の同母兄であったことも関係するだろう。 

 

吾妻鏡』によると、承久2(1220)年正月14日、「相州息 次郎時村、三郎資時」が「俄(にわか)に以(もっ)て出家」したという*10。この理由・経緯については明らかにされておらず、当時の人々も不審に思ったらしい*11が、前年に源実朝が殺害されたことが契機になったとも、朝直との家督争いに敗れたともいわれている*12

しかし、前述の通り建暦2年の段階で朝直が元服を済ませた可能性が濃厚であるとすれば、同年の段階で既に嫡男に定められていた*13可能性が高く、そのことを示すために急ぎ元服が執り行われたのではないかと推測される。加冠役を将軍・実朝が務めることになったのも、父・時房の意向・依頼によるものなのであろう。後者の可能性は考えられると思う。

 

元服後の活動内容・生涯については

北条朝直 - Wikipedia

を参照いただければと思う。 

 

脚注

*1:尊卑分脈』などの系図類を見ると、平直方、平時直(阿多見時直)が祖先として載せられている。

*2:大仏朝直(おさらぎ ともなお)とは - コトバンク より。『尊卑分脈』・『関東評定衆伝』に文永元(1264)年5月に59歳で死去した旨の記載がある。細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表」(基礎表)No.70「大仏朝直」の項も参照。

*3:注2細川氏著書 巻末職員表 No.64「佐介時盛」の項より。

*4:吾妻鏡人名索引』P.198「時盛 北条」の項。

*5:北条時村 (時房流) - Wikipedia より。

*6:吾妻鏡人名索引』P.200「時村 北条」の項。

*7:注2細川氏著書 巻末職員表 No.69「北条資時」の項より(→ 同氏のブログ記事 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その69-北条資時 | 日本中世史を楽しむ♪ も参照のこと)。『吾妻鏡』建長3(1251)年5月5日条に記載の没年齢53歳からの逆算による。

*8:吾妻鏡人名索引』P.182「資時 北条」の項。

*9:三浦義村の子、泰村の弟に三浦資村がいるが、泰村が1204年生まれである(→ 三浦泰村 - Henkipedia 参照)から、資時の烏帽子親を務めることは不可能である。場合によっては資村の烏帽子親も資時と同じだった可能性もあり得るだろう。また、同時期では『吾妻鏡』承久4(1222)年正月7日条に兄弟とみられる横溝五郎資重同六郎義行(資重の初見は前3(1221)年5月22日条「横溝五郎」、『吾妻鏡人名索引』P.182)が確認できるが、この横溝資重と何か関係があるのかもしれない。

*10:『吾妻鏡』同日条より。

*11:倉井理恵「『法名』『出家』にみる中世武士の精神 ―鎌倉北条氏を事例として―」(所収:『駒沢史学』58号〈葉貫磨哉先生追悼号〉、駒沢大学歴史学研究室内 駒沢史学会、2002年)P.75。

*12:北条時村 (時房流) - Wikipedia および 北条資時 - Wikipedia を参照。

*13:注2細川氏著書 P.35。