Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

戸次時親

戸次 時親(べっき/へつぎ ときちか、1258年頃?~1290年)は、鎌倉時代中・後期の武将、御家人。大友氏の一門・戸次氏の当主。

 

 

 【表1】各系図類における戸次氏嫡流の記載内容(烏帽子親に関する情報を中心に)*1

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上表に示した通り、北条を加冠役(烏帽子親)として鎌倉にて元服を遂げ、「之一字(=時の1字)」を授かったと伝える系図は複数ある。祖父・秀が北条時の娘を妻に迎え、「重」の字を共有したとみられること、時親以降も得宗を烏帽子親としたことを踏まえると、時宗偏諱を賜ったことは実際の名乗りからしても疑いは無いと思われる*2(「親」は祖父・大友親秀に由来するものであろう)

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▲【図2】『速見入江文書』所収「大友田原系図*3より:戸次氏嫡流の部分

この点について、以下史料等を交えながら考察・裏付けをしたいと思う。

 

【表1】にある通り、『系図纂要』等によると前述の重時の娘が時親の母であったらしい。従って、同じく重時の外孫である北条時宗*4とは、母親同士が姉妹となる、従兄弟の関係にあった。当時の大友氏惣領・大友頼泰の甥(【図2】)であることを踏まえても、時宗と近い世代の人物であったことは間違いないだろう。 

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弘安11(1288)年のものとされる「田中後家書状」(『肥後志賀文書』)には「へつきのまこ太郎殿」と現れ*5、【図2】と照合すれば嫡男の "孫太郎" 貞直がこの頃までに元服を済ませていたことが分かる。貞直は弘安7(1284)年4月以後に貞時の加冠を受けているはずなので、10代半ばくらいであったと思われ、父親である時親は若くとも30代半ば程度であったと考えられる。逆算すると1250年代後半の生まれと推定される。

これに従うと、通常10代前半で行う元服当時の得宗は、1263年の北条時頼逝去に伴って得宗家督を継承し、1268年から1284年に亡くなるまで執権の座にあった北条時宗*6であること確実となる。

 

さて、時親については僅かに、弘安8(1285)年9月晦日付「豊後国図田帳」(内閣文庫所蔵)に同国の戸次荘、大神荘の一部、由布院などの地頭職を務める人物として「戸次太郎時頼〔ママ〕 法名道恵」の記載が見られる*7。この部分『平林本』の図田帳では「戸次太郎時親法師 法名道恵」となっており*8、実在が認められる。

通称名に着目すると左衛門尉等に任官せず「戸次太郎」とのみ名乗ったまま出家したことが窺える。前述の生年に従えば当時は20代となるが、左衛門尉任官適齢の20代半ばを迎える前に若年ながら剃髪したことになる。元服の時期が北条時宗執権期間中であることはこの点からも裏付けられると思う。時親(道恵)は正応3(1290)年まで存命であったと伝わるが、前述の通り弘安11年からは嫡男・貞直の活動が見られ始めるので、病気等の理由であろうか、早々に家督を移譲したものと思われる。或いは、弘安7(1284)年4月の時宗逝去に伴う出家だった可能性も考えられよう。 

 

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ちなみに、大友頼泰の孫・貞宗の母は戸次時親の娘と伝わる*9が、若干年齢の間隔が短くも感じるものの、(時親や貞宗の生年を若干ずらせば)祖父―孫の年齢差としてはそれほど問題ないと思う。

 

(参考ページ)

 武家家伝_戸次氏

 戸次氏(べっきうじ)とは - コトバンク

渡辺澄夫「豊後国大野荘における在地領主制の展開 ー地頭志賀氏を中心としてー」(所収:渡辺『増訂 豊後大友氏の研究』、第一法規出版、1982年)

 

脚注

*1:筆者作成。表中の頁数は『群書系図部集 第4』におけるものとする。

*2:梅野敏明「鎌倉期由布院における戸次一族の所領獲得について」(所収:『挾間史談』 第6号、挾間史談会、2018年)P.38~39。

*3:大分県史料刊行会 編『大分県史料10』(大分県立教育研究所、1955年)P.455~456。

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*5:『鎌倉遺文』第22巻16553号。

*6:注4同箇所。

*7:『鎌倉遺文』第20巻15701号。渡辺澄夫「二豊の荘園について(一) ―豊後国図田帳を中心として―P.55~57。

*8:『鎌倉遺文』第20巻15700号。渡辺澄夫「荘園時代の別府 ー二豊荘園の研究(二)ーP.24・P.26 註(1)。利光 としみつ 豊後国大分郡戸次郷のうち 現・大分市大字上戸次字利光 | Qミん君の日本史の森 - 楽天ブログ

*9:『大日本史料』6-24 P.522『大日本史料』6-29 P.208『朝日日本歴史人物事典』「大友貞宗」の項(執筆:福川一徳)および 古藤田太「大友氏歴代墳墓を巡る(五) ―六代大友貞宗―P.15 によれば、松野家家伝・常楽寺蔵本「大友系図」に「母戸次太郎時親女 実は大友兵庫頭平頼泰第四子也」と記載されるというが、『続群書類従』所収「大友系図」において時親の女子に「大友親言〔ママ〕妻」との記載があるのに加え、文保2(1318)年12月12日付「関東下知状」(『大友文書』、『鎌倉遺文』第35巻26888号)に「大友左近大夫将監貞宗…(略)…貞宗祖父兵庫頭頼泰法師法名道忍……」とある(→ 大友貞宗 - Henkipedia【史料2】)によって父親は大友親時とすべきである。