Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

名越宗長

北条 宗長(ほうじょう むねなが、1252年頃?~1309年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人、北条氏の一門。名越流北条長頼の嫡男で、名越宗長(なごえ ー)とも。

 

 

吾妻鏡』での宗長 

吾妻鏡』には1度だけ、弘長3(1263)年正月1日条に6代将軍・宗尊親王の供奉人の一人「備前〔太〕郎宗長」として登場する。これが史料上での初見であろう

鎌倉時代に成立したとみられる「入来院本 平氏系図」では「備前二郎」と注記される*1が、いずれにせよ父親が「備前守」でその「太郎(長男)」ないしは「二郎(次男)」を表す通称名である。単に「大郎(太郎)」とだけ称するのは、この時は元服から間もない頃で無官であったためと考えられ、前年(1262年)までには済ませている筈である。  

但し、実際の書状では「備前次郎宗長」と書かれる(後述参照)ため、「入来院本 平氏系図」の信憑性の高さしても輩行名は「次郎」が正しいのだろう(尚、それまでの時長―長頼が「三郎」を名乗ってきたのに対し「次郎」を名乗った理由は不明である*2

 

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こちら▲の記事で、『吾妻鏡人名索引』では人物不詳としている弘長元(1261)年4月24日条「備前前守〔ママ、備前守の誤記か〕*3名越長頼である可能性を指摘した。少なくとも建長4(1252)年に亡くなった名越時長*4ではあり得ない。

『諸家系図纂』所収の北条氏系図では、時長の子備前三郎長頼の兄)として定長(さだなが)を載せ、「又宗長」と記して宗長をその別名とするが、"名越定長(北条定長)" なる人物を『吾妻鏡』・『尊卑分脈』等では確認できず、もとより江戸時代に成立のこの系図に全幅の信頼を置くべきではなかろう。前述の「入来院本 平氏系図」で宗長は長頼の子とされることからしても、定長=宗長ではないと思われる。

 

但し、これはあくまで長頼の子・宗長備前二郎)=定長を否定するものであって、時長の子に定長がいたこと自体を否定するものではない。「宗」と「定」字の類似から混同されたのではないかと推測される。前述の「備前大郎宗長」が定長の誤記なのだとすれば、長頼または宗長の庶兄の可能性があるが、これを裏付けられる史料は今のところ無い(定長の「定」は北条時頼の弟・時定からの偏諱であろうか?)

 

 

宗長の烏帽子親の推定

」の名は、「長」が時長―長頼と継承されてきた通字であるから、「」が烏帽子親からの偏諱と考えられる。結論から言うと、これは得宗北条時からの一字拝領ではないかと思う。

確かに前節で見たように、将軍・宗尊親王の近臣的役割を担ってはいるが、名越流の中でも時長系は親得宗派であり、これは得宗が擁する親王将軍へ伺候することで得宗家への協調姿勢を示しているものと考えるのが良いかと思う。宗尊親王との親密さで言っても、文永3(1266)年6月の京都送還の際、時宗の制止を無視し軍兵数十騎を率いて示威行動に出た大叔父(時長の弟)名越教時とはまるで異なるように思われる。のちに教時・宗教父子らが討伐を受けた同9(1272)年の二月騒動に、宗長が巻き込まれた史実は確認できない。

 

但し、宗長が弘長2(1262)年までに元服したことは前述した通りであり、時宗が執権および得宗家の家督を継承する前に行われたことになるが、これについては金沢流北条時方(のちの顕時)の事例が参考になるだろう。 

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時方(顕時)の元服は、前執権(当時)北条時頼の邸宅で行われ、加冠を務めたのはその嫡男・時宗であった。しかし、この時の時宗は9ヶ月前に元服したばかりの、時方より若い7歳の少年であり、亭主たる父の時頼が我が子を烏帽子親に指名したものと考えられている。

実のところ、時頼は最明寺を建立する*5より前から引退・出家を計画しており、その真の目的は、幼少の嫡子・時宗をいち早く後継者に指名し、時宗への権力移譲を平穏に実現することにあったという*6

時頼が出家して僅か3ヶ月後に急ぎ時宗元服が行われたのもそのためであることは容易に推測でき、以後時頼が亡くなるまでの期間(1257~1263年)においては、後継者・時宗と烏帽子親子関係を結ばせることを父親である時頼が主導したと考えられる。

 

そして、その事例は顕時(時方)だけであったとは思われず、宗長もその一人ではないかと思う。祖父・時長(、ひいては当時の執権・北条長時)と同名になるのを避けるため、時宗宗尊親王から賜った「」字が下げ渡される形となった。

 

 

史料における宗長

以下、『吾妻鏡』以降の史料(書状など)で確認できる限りの宗長の動向を追っていきたいと思う。

 

文永10(1273)年6月25日付「関東御教書案」(所収:書陵部所蔵『八幡宮関係文書』三十五)*7に「備前次郎宗長」とあり。この段階ではまだ無官であったことが分かる。

尚、同年のものとされる6月9日付「平宗長書状案」(同前)*8の「平宗長」も名越宗長に比定されよう。

この段階でも、当時の執権・北条時の1字を許されていることが、先に時宗が烏帽子親であったと述べた所以である。

 

建治元(1275)年成立「東大寺図書館所蔵『梵網戒本疏日珠紗』巻八 紙背文書」

同年末の段階で能登国守護*9

 

 

● 弘安8(1285)年9月晦日付「豊後国図田帳」*10に同国速見郡石垣荘別府の地頭として「名越備前左近大夫」の記載あり*11通称名は「名越備前守」の子で「左近大夫将監」に任官していることを表す。各系図類で確認できる限り、名越流で備前守となったのは時長流のみであり、繰り返すがこの当時時長は故人であるので、備前守に該当し得るのは長頼 か 宗長である。しかし「左近大夫(将監)」という官途から既に叙爵済みであったことが分かり、名越流では20数歳で行われることが多かったことを考えると、宗長の息子がこの年齢に達するには無理があると思われ、「名越備前左近大夫」は宗長本人に比定されよう*12

 

前述の推定生年に基づくと、この頃の宗長は30数歳であったと推定されるが、恐らく1270年代後半には既に叙爵して左近将監に任官していたのだろう。年齢的には国守に昇進してもおかしくはない年齢で、翌弘安9(1286)年頃には備前守に任官したのではないかと推測される

 

<参考>13世紀後半~14世紀初頭の備前守

文永8(1271)年11月*13~弘安5(1282)年以前*14長井時秀*15

*同10年の段階で宗長が「備前次郎」を名乗っていたことは前述の通りで、備前守任官はこれより後ということになる。

 **弘安年間:空白期** → この間に名越宗長が在任か?

★弘安7(1284)年のものとされる2月4日付「見阿神馬送状案」(『豊前益永家文書』)*16の「備前守殿」および 2月5日付「北条実政神馬送状案」(同前)*17の発給者「備前守」について、『鎌倉遺文』では北条(金沢)実政とするが、上総介を辞して後も「前上総介」「上総前司」等と呼ばれ*18備前守任官は確認できないので、誤りである。宗長の前任者であろうか。

正応元(1288)年11月18日~嘉元2(1304)年6月6日遠江守転任〉北条(常葉)時範*19

*後述するが、常葉時範の転任時に宗長は既に出家して「備前入道」を名乗っていたため、備前守在任は時範より前であったことは確実である。

 

 

● 相模守(=9代執権・北条貞時)・陸奥守(=連署・大仏宣時)の発給による以下の「関東御教書案」3通の宛名「備前々司殿」(=越後国沼河郡地頭)が宗長に比定される*20

◆ 正応2(1289)年10月29日付(『厳島文書』)*21

◆ 正応6(1293)年2月11日付(『安芸厳島御判物帖』)*22

◆ 正応6年3月20日(『安芸厳島御判物帖』)*23

 

 

 正安3(1301)年7月10日付「東漸寺仏殿梁牌銘」(武蔵杉田東漸寺所蔵)*24に「従五位上備前守朝臣宗長」とあり*25

 

 ★この間に出家か。時期からすると、正安3年8月の執権・北条貞時の剃髪に追随した可能性がある。

 

 嘉元2(1304)年3月12日「関東下知状」(『相模相承院文書』)*26に「相模国弘河郷地頭備前入道定証代定覚」とあり。相模国大住郡弘河郷(現在の神奈川県平塚市広川)*27の地頭を務める定証(旧字:定證)は、次の史料により宗長法名と分かる。 

【史料】『武家年代記』裏書(『増補 続史料大成 第51巻』)より*28

延慶二(1309)

六八(旧暦6月8日)美作左ー周時逝去、同七三(7月3日)、若宮別当大僧正道瑜入滅、同七十六(7月16日)、江馬遠江政俊卒、同十九(7月19日)民部少輔公貞卒、同廿三(7月23日)名越備前々司宗長法師 法名定証 逝去、……(以下略)

この史料により宗長の没年月日が判明している。死因は明らかにされていないが、宗長の他にも周時(ちかとき)、江馬政俊、公貞(きみさだ)とこの頃は名越流北条氏一族の死が相次いだことが窺える。 

 

 

参考外部リンク

 名越流時長系北条氏 #北条宗長

 吉見氏の能登移住

 

 

脚注

*1:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.4。

*2:旅と犬と史跡巡りと 人名辞典-2 #名越宗長

*3:吾妻鏡人名索引』P.520。

*4:吾妻鏡』同年8月26日条に時長卒去の記事が見られる。

*5:吾妻鏡』建長8(1256)年7月17日条によれば、同日将軍・宗尊親王が山ノ内の最明寺を参詣したが、時頼が出家の準備を内々に進めていたのでこの日の参詣になったといい、最明寺は時頼が出家に備えてこれより少し前の時期に建てたものであった(高橋慎一朗『北条時頼』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2013年)P.152)。

*6:前掲高橋氏著書 P.154。典拠は村井章介「執権政治の変質」。

*7:『鎌倉遺文』第15巻11352号。

*8:『鎌倉遺文』第15巻11342号。

*9:熊谷隆之「鎌倉幕府支配の北陸道における展開」(所収:『富山史壇』168号、越中史壇会、2012年)P.6 より。

*10:内閣文庫所蔵。『鎌倉遺文』第20巻15701号。

*11:渡辺澄夫「二豊の荘園について(一) ―豊後国図田帳を中心として―P.23 および 「荘園時代の別府 ー二豊荘園の研究(二)ーP.37・56。石垣の歴史 別府歴史資料デジタルアーカイブ も参照のこと。

*12:『前田本 平氏系図』で見る限り、時長系で左近将監となったのは、「備前守 左近大夫」と注記される宗長のみである。細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.369を参照のこと。尚、同書P.45によると、『前田本 平氏系図』は元は仁和寺に所蔵されていた系図の影写本であり、室町時代前期以前の成立で比較的正確度は高いとされる。

*13:『関東評定衆伝』文永8年条。

*14:『勘仲記』弘安5年7月4日条に「関東使 信濃〔ママ〕前司氏信、備前守時秀」とあり、京極氏信(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№99-京極氏信 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照)と共に東使として上洛した長井時秀がこの時既に備前守を辞していたことが分かる。

*15:注12前掲細川氏著書 巻末「鎌倉政権上級職員表」(基礎表)No.134「長井時秀」の項より。

*16:『鎌倉遺文』第20巻15066号。

*17:『鎌倉遺文』第20巻15067号。

*18:『鎌倉遺文』データベース検索北条実政」の結果より。

*19:注12前掲細川氏著書 巻末「鎌倉政権上級職員表」(基礎表)No.33「常葉時範」の項より。同内容を載せる細川氏のブログ記事 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その33-常葉時範 | 日本中世史を楽しむ♪ も参照のこと。

*20:「一般国道8号 糸魚川東バイパス関係発掘調査報告書Ⅹ 横マクリ遺跡Ⅱ」(所収:『新潟県埋蔵文化財調査報告書』257号、新潟県教育委員会、2015年)P.9。

*21:『鎌倉遺文』第22巻17171号。この頃までに安芸守護職が宗長に移ったと考えられている(→ 名越宗長(なごしむねなが)とは - コトバンク 参照)。

*22:『鎌倉遺文』第23巻18109号。尚、この頃も能登国守護を兼ねていたという(注9前掲熊谷氏論文P.7)。

*23:『鎌倉遺文』第23巻18128号。

*24:『鎌倉遺文』第27巻20823号。

*25:杉田東漸寺と宗長の関係については、東漸寺 (横浜市) - Wikipedia講演会・活動報告2016年 - 横浜市南区 蒔田の吉良歴史研究会鎌倉Today - 鎌倉好き集まれ!(もちださん 第184号)(ともに外部リンク)を参照のこと。

*26:『鎌倉遺文』第28巻21768号。

*27:ウェブサイト「いざ鎌倉」 参照。相模国大住郡弘河郷の御霊神社が現在の神奈川県平塚市広川691に相当するという。

*28:『史料稿本』花園天皇紀・延慶二年四~八月 P.41 も参照。