Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

北条宗頼

北条 宗頼(ほうじょう むねより、1246年頃?~1279年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。北条氏得宗家の一門。北条時頼庶子(庶長子か?)。母については弘安8(1285)年9月晦日付『豊後国図田帳』*1の中に見える「相模七郎殿母御前辻殿」が該当すると考えられている*2が、「相模七郎」は長男・兼時の可能性も考えられる(後述参照)ので要検討である。幼名は曼珠王(『野津本北条系図』)*3。通称は相模七郎、相模修理亮。

 

 

宗頼の初見史料 

死没の時期については、『尊卑分脈』、『諸家系図纂』、『一代要記』、『関東開闢皇代并年代記事』所収「関東執権六波羅鎮西探題系図」の各史料・系図類で、弘安2(1279)年6月と一致している*4

一方、生年については1259年とする説がある*5が、細川重男も兄・宗政が弘安4年に29歳で亡くなっている*6ことを理由に、弘安2年における宗頼の没年齢も20代後半以下であったと推測されており*7、事実上この説を支持する形となっている。

しかし、そうすると文永元(1264)年生まれの長男・兼時*8が、宗頼が僅か6歳(数え年,満年齢だと4~5歳)の時の子となってしまう矛盾が生ずる。

 

他方で同じく細川氏は、翌文応元(1260)年、6代将軍・宗尊親王が二所詣のため北条重時邸に入御した際の供奉人を記した次の記事を史料上での初見とされる*9。すると、生年を1259年とするのは無理と言える

【史料A】『吾妻鏡』文応元(1260)年11月21日条より

文應元年十一月大廿一日甲申。将軍家依可始二所御精進御。中御所入御陸奥入道*亭。
供奉人
 相摸大〔太〕 同四郎重政〔ママ、宗政の誤記か〕

 同三郎時利   同七郎宗頼
(以下略) 

*陸奥入道=前連署北条重時法名:観覚、最終官途:陸奥守)。

 全23名の供奉人中、時頼の息子としては、次兄・相模太郎 時宗(10)、三兄・相模四郎 宗政(8)、長兄・相模三郎 時利(のちの時輔)(13) に次いで四位にあり、細川重男は「四郎」を称する宗政が8歳で、かつ供奉人となり得たことから、当時宗頼は5~6歳程度であったのではないかと推測されている*10

しかし、「(相模)七郎宗頼」と書かれていることからこの段階で既に元服済みであったことは明らかで、時輔が9歳、時宗が7歳で元服し、時宗に次ぐ準嫡子であった宗政についても7歳で元服したのではないかと考えられていることから、彼らに準ずる扱いを受けていた宗頼が5~6歳で元服を済ませていたとは考えにくく、【史料A】の段階では7歳以上であったと考えるのが妥当ではないかと思われる。

*「相模七郎」という通称名は、父が相模守で、その「七郎(本来は7男の意)」であったことを表すものである。この頃の相模守として該当し得るのは北条時頼北条政村である*11が、政村の息子のうち政方が「相模七郎」を称したらしい*12ので、相模七郎宗頼の父たる相模守はやはり時頼しかあり得ないだろう。後述するが長男・兼時(相模守時宗の猶子)が「相模七郎」を称したのと同様に、実は時頼の猶子であった可能性も一応は考えるべきかもしれないが、いずれにせよ時頼―宗頼の間に親子関係が成立していたことは揺るがない。

 

また、『鎌倉年代記』嘉暦元(1326)年条によると、第16代執権となった赤橋守時の注記に「修理亮宗頼」とあり、守時の母が宗頼の娘であったことを伝える。『北条時政以来後見次第』東京大学史料編纂所架蔵影写本)では宗頼の長男・兼時の娘と記すらしいが、細川氏は永仁3(1295)年に、当時32歳であった兼時の娘(現実的に考えると12~14歳程度か)が守時を生むのには無理があるとして、『鎌倉年代記』の方が信憑性が高いとしている*13。或いは兼時の "姉" または "妹" の誤記なのかもしれない。

いずれにせよ、細川氏の言われる通り、現実的な親子の年齢差を考えるならば、守時母は1275年頃より前の生まれ、そしてその父・宗頼の生年は1255年以前であったと考えるべきであろう。これによっても1259年生年説が成り立たないことが分かる。

 

 

宗頼の息子と生年についての考察

長男・北条兼時について

次に触れておきたいのが、宗頼の息子である。前述の守時母の女子以外に、系図類では北条兼時北条宗方の2名が確認できる。

細川氏の研究によると、兼時は文永元(1264)年*14、宗方は弘安元(1278)年*15の生まれであるという。兼時については『武家年代記』弘安8(1285)年条に「正応二六廿六従五上廿七才、(=正応2(1289)年当時、数え27才)と記すのに従った場合、弘長3(1263)年生まれとなるが、いずれにせよその頃の生まれであった可能性は高いのではないかと思われる。

 

その裏付けとして、弘安4(1281)年閏7月11日付「関東御教書」(『東寺文書五常』)*16中に「相模七郎時業」の記載があり、前3(1280)年のものとされる書状2通(ともに『山城醍醐寺文書』所収)*17中の「相模七郎」も時業に比定されるが、この「時業」は宗頼の長男・兼時の初名と判断され*18宗頼の死から間もないこの頃では、兼時(時業)は既に元服を済ませていたことが窺える。前述の生年に基づけばこの当時17~19歳となり、元服から数年経った年齢として妥当である。

よって宗頼の長男・兼時の生年は1264年で問題ないと判断される。

 

修理亮任官時期と生年の推定 

「時頼(1227年生*19 )―兼時(1264年生)」の「祖父―孫」間、37年の年齢の開きがあるので、「時頼―宗頼」、「宗頼―兼時」各々の年齢差をほぼ均等にすると18, 19歳と算出でき、親子の年齢差としては問題ない。すると、宗頼の生年は1246年頃と推定でき、初見の1260年当時は15歳と元服適齢期となるので、元服を済ませたばかりのタイミングとしては十分妥当ではないかと思う。時頼の庶長子とされてきた北条時輔は宝治2(1248)年生まれであり*20、1246~47年生まれというのが本当であれば、宗頼が時輔より早くに生まれた時頼の庶長子であった可能性が高くなる。少なくとも、建長3(1251)年生まれの時宗*21、建長5(1253)年生まれの宗政*22より年長だったのではないかと思う。 

 

宗頼の最終官途が修理亮従五位下相当)*23であったことは『尊卑分脈』や『諸家系図纂』等の系図類に記されるだけでなく、『鎌倉年代記』での守時の注記(前述参照)や、当時の書状類でも確認ができる(後述参照)。得宗家での前例としては、曽祖父の泰時が29~34歳の間、修理亮であったことがあり*24、祖父の時氏も25歳の叙爵時に修理亮への任官を果たし*25、そのまま28歳で早世した*26。従って宗頼の修理亮任官年齢も同様に20代後半以上であったと考えるのが妥当であろう

また、参考までに時氏以降の叙爵年齢を確認してみると、第4代執権・北条経時が14歳*27、初めはそれに次ぐ準嫡子の地位にあった父・時頼が17歳*28であり、その息子たちは、時宗が11歳*29、宗政が13歳*30、時輔が18歳*31であった。宗政と時輔は同月での叙爵であり、嫡子・準嫡子以外の庶子の昇進は遅かったことが窺える。そして、時輔より格下に位置付けられる宗頼は18歳以上での叙爵であったと判断できよう

 

ここで宗頼の修理亮在任時期を確認しておきたい。

吾妻鏡』では【史料A】以降、文永3(1266)年7月4日条までに17回登場するが、その呼称は一貫して「相模七郎 (宗頼)」であった*32

その後、文永11(1274)年5月29日付「北条宗頼書状写」(『肥後阿蘇文書』)の発給者の署名は「修理亮宗頼」となっており*33、翌建治元(1275)年のものと推定される次の史料での「相模修理亮殿」も宗頼に比定される*34

【史料B】「諸国守護職注文」東大寺図書館所蔵『梵網経戒本疏日珠抄 紙背文書』)*35より

(前欠)

 本給人 信濃判官入道*1  

長門国

 本給人 周防前司*2   相模修理亮殿

周防国          

 本給人 大友出羽前羽〔ママ、出羽前司カ〕*3  (異筆)「北六ハラ殿」

筑後国        武蔵守殿*4

……(以下略)

 

*1:二階堂行忠 *2:藤原親実 *3:大友頼泰 *4:北条宗政

『長門国守護代記』にも「十七. 相模修理亮殿宗頼 建治二年正月十一日当国下着 代官太郎殿頼茂」と記されており、宗頼の修理亮任官は1266~1274年の間であったと推定可能である。ちなみに通称名は「相模」が前述に同じく父・時頼の最終官途で、自身が修理亮であったことを表すものである。仮に、間を取って1270年に泰時や時氏に同じく20代後半で任官した場合、逆算すれば1240年代後半の生まれとなり、これより時期が大幅に下ることは考えにくいと思う。

従って、以上の考察により宗頼の生年は1246年頃と推定するのが妥当ではないかと思う。 すなわち、系図類では時頼の末子として扱われていたが、実は庶長子であった可能性が出てきた

 

 

烏帽子親について

最後に「」という実名について考察してみたい。

」は言うまでもなく父・時の1字を継承したものと見受けられるので、1文字目に掲げる「」が烏帽子親からの偏諱である可能性が極めて高い。系図を見れば、兄弟でも時政がこの字を得ており、特に時の加冠役が将軍・尊であったことは次の記事で紹介の通りである。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

時頼の子の元服については、建長8(1256)年に時輔(幼名:宝寿、初名:時利)が9歳で行ったものの、翌年(1257年)には時宗(幼名:正寿)も僅か7歳で元服を遂げたことが『吾妻鏡』に記録されている。

*『吾妻鏡』により判明しているだけでも、北条氏得宗家における前例として、泰時(初め頼時)・朝時が13歳、経時時頼がともに11歳であった。他には朝時の異母弟、政村・実泰が各々7歳での元服であったが、これは義時の継室の子であったためであろう

前述の推定生年からすると、時宗が生まれた1251年当時宗頼もまだ幼少であったと考えられ、時宗誕生に伴って早くより家督継承者からは外されていたとみられる。従って、宗頼の元服は、時輔や時宗とほぼ同時期に行われたとみて良いのではないか。時輔が元服を遂げた1256年の段階では11歳位となり、父・時頼のケースとほぼ同年齢での元服だったのかもしれない。

北条義時の息子で泰時(時)・時・泰が源氏将軍の偏諱を賜った前例を踏まえると、時政・頼も皆、将軍・親王偏諱を受けたのではないかと推測される。

但し、宗頼が庶長子であったとして、【史料A】等で弟・時輔より下位に置かれた理由、それに反して宗尊の「宗」字を受けられた理由、またその仮名が(間の「次郎」「五郎」「六郎」ではなく)七郎」となったのかなど、まだまだ疑問の余地を残す部分はあるが、これについては後考を俟ちたいところである。

 

(参考史料) 

kijima.lib.kumamoto-u.ac.jp

 

脚注

*1:内閣文庫所蔵。『鎌倉遺文』第20巻15701号。

*2:川添昭二北条時宗』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2001年)P.14。高橋慎一朗『北条時頼』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2013年)P.224。渡辺澄夫「二豊の荘園について(一) ―豊後国図田帳を中心として―P.55。

*3:前注高橋氏著書 同箇所。尚、高橋氏は「曼寿」または「萬寿(万寿)」の当て字である可能性も指摘されている。

*4:『編年史料』後宇多天皇紀・弘安2年6~8月、P.5。注2前掲川添氏著書 P.243。

*5:北条宗頼(ほうじょう むねより)とは - コトバンク。「関東執権六波羅鎮西探題系図」での宗頼の注記「字相模七郎」「本名宗長 為異国警固下向長門国 弘安二六五於彼国卒年廿一 于時修理亮」(=弘安2(1279)年6月、年21才で卒去、→『編年史料』後宇多天皇紀・弘安2年6~8月、P.6)に従って逆算すると1259年生となり、これに拠ったものか。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その11-北条宗政 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ記事)も参照のこと。

*7:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.290。

*8:北条兼時(2)(ほうじょう かねとき)とは - コトバンク 参照。

*9:注7前掲細川氏著書 P.51 注(30)。『吾妻鏡人名索引』P.314「宗頼 北条」の項。

*10:注7前掲細川氏著書、同箇所。

*11:相模国 - Wikipedia #相模守 より。尚、時頼の前任者であった北条重時は相模守から転任した陸奥守が最終官途である。

*12: 政村流北条氏 #北条政方 より。

*13:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その30-赤橋守時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*14:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その15-北条兼時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*15:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その16-北条宗方 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*16:『鎌倉遺文』第19巻14388号。

*17:『鎌倉遺文』第18巻14031号、14032号。

*18:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その15-北条兼時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。典拠は「六波羅守護次第」(→ 熊谷隆之「<研究ノート>六波羅探題任免小考 : 『六波羅守護次第』の紹介とあわせて」(所収:京都大学文学部内・史学研究会編『史林』第86巻第6号)P.102(866) も参照のこと)。また、「入来院本 平氏系図」でも普音寺業時の娘(時兼の妹)の注記に「兼時室 本名時業」とあり、該当し得る人物は宗頼の子、宗方の兄として掲載の兼時である(山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.10、16)。

*19:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*20:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その10-北条時輔 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*21:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*22:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その11-北条宗政 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*23:修理の亮(しゅりのすけ)とは - コトバンク より。

*24:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*25:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その4-北条時氏 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*26:『吾妻鏡』寛喜2(1230)年6月18日条

*27:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その5-北条経時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。嘉禎3(1237)年2月、左近将監任官の翌日。

*28:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪ より。寛元元(1243)年閏7月、左近将監に任官の時。

*29:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ より。弘長元(1261)年12月、左馬権頭に任官の時。

*30:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その11-北条宗政 | 日本中世史を楽しむ♪ より。文永2(1265)年4月、右近将監に任官の時。

*31:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その10-北条時輔 | 日本中世史を楽しむ♪ より。文永2(1265)年4月、式部丞に任官の時。

*32:吾妻鏡人名索引』P.314「宗頼 北条」の項。

*33:『鎌倉遺文』第15巻11662号。

*34:永井晋「北条実政と建治の異国征伐」(所収:北条氏研究会編『北条時宗の時代』〈八木書店、2008年〉第2章-第1節)P.302。【史料B】本文および人物比定もこれに拠った。

*35:横須賀市史 史料編 古代・中世1』一三七五号。