三浦泰村
三浦 泰村(みうら やすむら、1204年~1247年)は、鎌倉時代中期の御家人。
人物・生涯については
三浦泰村 - Wikipedia をご参照いただきたい。
本項では泰村の一字拝領と生年についての考察を述べたいと思う。
三浦氏では、三浦為継(為次)の子・義継(義次)が 源義家から偏諱の「義」字を賜ったらしく*1、以来「義」が通字として、嫡流(義明―義澄―義村)をはじめ、和田義盛、佐原義連などの一族出身者にまで広く用いられていた。
しかし、系図類によれば、三浦義村の子は、朝村・泰村・光村 など、ほぼ全員が「村」字を継承したことが確認される。
▲三浦氏略系図(武家家伝_三浦氏に掲載の「三浦氏系図_バージョン1」を基に作成)
「佐野本三浦系図」を見ると、泰村の注記に「元服之時北条泰時加冠、授諱字」と書かれている*2。最終的には5代執権・北条時頼らと対峙することとなり宝治合戦で滅ぼされてしまうが、北条義時自身は三浦氏(義明または義澄)から「義」字を受けたとする説があり*3、実際に義連が義時の弟・時連(のち時房)、義村が義時の子・政村の烏帽子親を務めるなど、当初は協調関係にあったと言える。泰村自身ものちに北条泰時の娘を妻に迎えたことが確認されているから、「泰」字が泰時に関係することは間違いないだろう。「泰」は加冠役を務めた北条泰時からの偏諱と解釈されている*4。
後世に作成の系図であることに加え、実際の元服の様子を確認できる、書状などの一級史料が未発見のため、 "泰時が加冠(=烏帽子親)を務めた" とするこの情報の扱いには一応注意を要する。しかし、これについて検討することは、泰村の年代を考える上で大変重要な作業である。というのも、没年齢(および生年)について次の2説が存在するからである。
● A:『関東評定衆伝』宝治元(1247)年条によれば、宝治合戦で亡くなった時、64歳(*数え年、以下同様)であったといい*5、逆算すると1184年生まれ。
● B:『承久記』によると、承久の乱(1221年)における宇治橋での戦いに際し、"三浦駿河次郎泰村" が「生年18歳」と名乗る場面があり*6、これに従うと1204年生まれ。
まずは、三浦氏における元服の年齢について考えてみたい。
再び「佐野本三浦系図」を見ると、泰村一家が滅ぼされた時、その次男・景泰(駒石丸、北条時頼の養子)が13歳であったのに対し、三男・駒禰丸は12歳であったという*7。宝治合戦での敗死者等のリスト(名簿)である「三浦合戦討死生虜等交名注文」*8には「若狹前司泰村 同子息次郎景村 同駒石丸……(以下略)」と記されるが、時頼が養子にしたことを記す1ヶ月前の記事でも「駒石丸」と書かれている*9 から、元服して「景泰」を名乗ったとしても合戦の直前で、名前が知られていなかった可能性も考えられる。従って、元服して幼名から諱(実名)に改める年齢は13歳程度であったと考えて良いだろう。
これに従って元服の年次を推定すると、Aの場合1196年、Bの場合1216年となる。
一方、北条泰時は建久5(1194)年2月2日、初代将軍・源頼朝の加冠により元服し、初めはその偏諱「頼」を賜って「江間太郎頼時」と名乗っていた*10。当時の年齢は同じく13歳、頼朝が義理の伯父(伯母・北条政子の夫)という親戚関係によるものであろう*11。
水野智之氏は、『吾妻鏡』での表記が正治2(1200)年2月26日条では「江間大郎頼時〔ママ〕」*12であったものが、翌建仁元(1201)年9月22日条では「江馬太郎殿 泰ー(時)〔ママ〕」*13と変わっていることから、この間に「泰時」に改名したと推測されており、源氏将軍家(=従兄の2代将軍・源頼家)と距離を置いたためではないかと述べられている*14。タイミングとしては頼朝が亡くなった建久10(1199)年1月13日から数年後であり、今野慶信氏も頼朝の死が改名に関係するのではないかとしている*15。
すると、Aの場合だと泰時の改名前に「泰村」を名乗ったことになり、泰時(江間頼時)から「泰」の偏諱を貰うことは不可能である。また『関東評定衆伝』同年条ですら、泰村のすぐ下の弟・三浦光村の享年を43としており*16、泰村(享年64) と21歳も離れていたというのは不自然と言わざるを得ない。よってこれらの観点から言っても、A説は成り立たないだろう。
B説を採用すると、宝治合戦で亡くなった時44歳、光村より1年年長となり、「佐野本三浦系図」での記載にも合致する。前述の考察において1216年頃の元服としたが、『吾妻鏡』でも承久年間を初見として「三浦次郎」「駿河次郎泰村」等の名で現れる*17から、矛盾は無い*18。すると、北条泰時が執権となる前の元服ということになるが、恐らく個人的な契機で烏帽子親子関係が結ばれたのであろう。実際に泰村は泰時の猶子となって、その娘婿となっているし、承久の乱に際しても、泰村は父に同伴せず、泰時の軍に属して参加しており、早くから泰時と泰村は強固な関係で結ばれていたことが窺える。
ところが、寛喜2(1230)年、泰村の妻であった泰時の娘が25歳で死去*19、次いで後室に迎えた泰時の妹も早世し*20、延応元(1239)年には父・義村*21、仁治3(1242)年には泰時*22も亡くなって、婚姻関係を基礎とする北条・三浦両家の連携は陰りを見せ始めることとなった。
但し三浦氏において反執権派の先鋒となっていたのは頼経に近侍していた光村であり、泰村自身は比較的穏健派であった。一方の5代執権・北条時頼も、前述の養子にした件も含めて、泰村との決裂を回避しようと躊躇っていた節が見られる。
しかし、宝治元(1247)年6月5日、三浦氏の排斥を狙う安達景盛が嫡男・義景らに命じて泰村亭を攻めたことにより、時頼も弟・時定を大将軍とする軍勢を向かわせる決断をせざるを得なくなり、泰村ら一族は自害して果てたのである*23(宝治合戦)*24 。
[参考] 三浦氏歴代惣領の生没年
●三浦為継:1053~1???*26
*父・為継との年齢差の点で生年にはやや疑問あり。没年齢からの逆算によるものだが、享年93というのは(全くあり得ないとは言い切れないが)当時としては長寿過ぎるようにも感じる。父・為継と子・義明(祖父―孫の関係)の年齢差は40歳であるから、「為継―義継」「義継―義明」各々の年齢差を20とすると、1072年頃の生まれと推定できるが、数年遅らせただけになるので、世代的にはほぼ妥当であろう。源義家(1039-1106)*28 存命時の元服で「義」の偏諱を賜ることは十分可能である。
●三浦義澄:1127~1200*30
*平常澄(上総常澄)の加冠により元服し、「澄」の偏諱を受けたとされる*31。1140年前後~60年代初頭には常澄の活動が確認できる*32ので、この間の元服と考えれば、生年の信憑性は立証できよう。
*『吾妻鏡』での初見は、寿永元(1182)年8月11日条「三浦平六」(次いで元暦元(1184)年8月8日条には「平六義村」と現れる)。無官の通称名であることから、元服してそれほど経っていない頃であったと思われる。また、親子の年齢差を考えれば、生年は1147年頃より後と考えるのが妥当であり、1170年代後半の元服であった可能性が高いことを考慮すれば1160年代前半の生まれと推定できる。「為通―為継」や「義明―義澄」のケースに同じく父が30代の時の子だったのだろう。
すると「義村―泰村」の年齢差も同様であった可能性が高い。1204年生まれとすると義村が30代後半~40代の時の子となってしまうが、先に長男(泰村の兄)として朝村が生まれていたから多少年齢差が開くことは何ら問題ないと思う。朝村の「朝」は、元服時に源氏将軍(初代・源頼朝(在職:1192-1199) または 3代将軍・源実朝(在職:1203-1219))の偏諱を賜ったものと考えられるので、 これも泰村の生年を裏付ける根拠になるだろう。
[追記]
本稿投稿後、三浦義村 - Wikipedia が更新され、義村の生年を仁安3(1168)年と推定する説が紹介された。『吾妻鏡』元暦元(1184)年8月8日条に「(三浦介義澄 男)平六義村」が源範頼を総大将とする平家追討軍に父・義澄とともに参加した記事があり、『源平盛衰記』37巻「平家開城戸口并源平侍合戦事」ではこの追討軍の構成について「十五六ハ小、十七以上ハ可㆓上洛㆒ト被㆑定タリ(=十七以上は上洛すべきと定められたり)」と、参加資格が17歳以上であったことを示しており、義村がこれ以前に従軍した形跡がないことから、この年に17歳になった可能性が高いとして、高橋秀樹氏が逆算して出したものである*34。前述の推定より少し下るが、泰村ら息子たちとの年齢差の面では変わらず問題はなく、同じく伊東祐親の外孫で従兄弟関係にある北条義時(1163年生)ともほぼ同世代となるほか、建久元(1190)年の源頼朝上洛の折、右兵衛尉に任官した(『吾妻鏡』同年12月11日条)当時、数え23歳になる点でも問題はない。
脚注
*1:鈴木かほる 『相模三浦一族とその周辺史: その発祥から江戸期まで』(新人物往来社、2007年)P.40。典拠は文化9(1812)年刊『三浦古尋録』所載の「三浦家系図」。
*3:細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史 ―権威と権力―』〈日本史史料研究会研究選書1〉(日本史史料研究会、2007年)P.17。北条義時 - Henkipedia も参照のこと。
*4:今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.49。
*8:『鎌倉遺文』第9巻6842号。『吾妻鏡』宝治元(1247)年6月22日条。『大日本史料』5-22 P.82。
*9:『吾妻鏡』宝治元(1247)年5月6日条。『大日本史料』5-22 P.4。
*10:『吾妻鏡』同日条。水野智之『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』〈歴史文化ライブラリー388〉(吉川弘文館、2014年)P.46。
*11:注3前掲今野氏論文、P.46。
*12:吉川本『吾妻鏡』上巻・同日条(国立国会図書館デジタルコレクション)。
*13:吉川本『吾妻鏡』上巻・同日条(国立国会図書館デジタルコレクション)。「江間」と「江馬」の表記ゆれはあるが、「江間(小)四郎」/「江馬四郎」→「相模守/相州」という父・義時の呼称の変化に伴って、泰時の通称名も「江馬太郎」→「相模太郎」と変わっている(『吾妻鏡人名索引』)から、『鎌倉年代記』・『尊卑分脈』など他の史料とも照合すれば、「江間殿嫡男童名金剛。十三。……号太郎頼時」(注9『吾妻鏡』記事より)と「江馬太郎(泰時)」は義時の長男で同一人物とみなして良い。
*14:注9前掲水野氏著書、同箇所。
*15:注3前掲今野氏論文、P.42。
*17:承久元(1219)年7月19日条に「三浦次郎」、同2(1220)年12月1日条に「…駿河守義村…(略)…泰村。光村。…」とある。
*18:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その113-三浦泰村 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)でも細川氏は息子との年齢差の点で1204年生年説を採っておられる。
*19:『吾妻鏡』寛喜2年8月4日条 に「武州御息女 駿河次郎妻室 逝去 年廿五。産前後数十ヶ日悩乱。」とある。
*20:『吾妻鏡』嘉禎2(1236)年12月23日条 に「駿河次郎妻室 武州御妹 早世」とある。
*22:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*24:注1前掲鈴木氏著書 P.236~240、および 湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』(吉川弘文館、2012年)P.26~29 に基づき記述。
*25:湯山学『相模武士 全系譜とその史蹟2 三浦党』(戎光祥出版、2011年)試し読みpdf P.7。
*26:前注同箇所。
*27:三浦義継(みうら よしつぐ)とは - コトバンク より。
*28:源義家(みなもとのよしいえ)とは - コトバンク より。
*29:三浦義明(ミウラヨシアキ)とは - コトバンク より。
*30:三浦義澄(みうらよしずみ)とは - コトバンク より。
*31:野口実『中世東国武士団の研究』(高科書店、1994年)。
*32:詳しくは 平常澄 - Wikipedia、上総氏 平常澄 を参照のこと。