Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

佐介宗直

北条 宗直(ほうじょう むねなお、生年不詳(1260年代前半?)~1333年)は、鎌倉時代後期から末期の武将、御家人、北条氏一門。父は北条頼直。子に北条(佐介)直時。官途は左近大夫、近江守。佐介宗直(さすけ ー)とも呼ばれる。

 

まず、次の史料を見ておきたい。

【史料1】『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」より一部抜粋*1

(前略:長崎高重→摂津道準(親鑑)→諏訪直性(宗経)→長崎円喜・長崎新右衛門(高直カ)→相模入道北条高時→安達時顕(延明)の順に切腹)……是を見て、堂上に座を列たる一門・他家の人々、雪の如くなる膚を、推膚脱々々々、腹を切人もあり、自頭を掻落す人もあり、思々の最期の体、殊に由々敷ぞみへたりし。其外の人々には、金沢太夫入道崇顕佐介近江前司宗直・甘名宇駿河守宗顕・子息駿河左近太夫将監時顕・小町中務太輔朝実〔ママ〕常葉駿河守範貞……城加賀前司師顕〔ママ〕・秋田城介師時〔ママ〕・城越前守有時〔ママ〕……城介高量〔ママ、高景〕同式部大夫顕高同美濃守高茂秋田城介入道延明……、我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。…………嗚呼此日何なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

こちらの史料は、元弘3(1333)年5月の鎌倉幕府滅亡(東勝寺合戦)の際、得宗北条高時(相模入道崇鑑)らが自害した様子を描いたものである。この『太平記』は元々軍記物語ではあるが、『尊卑分脈』などと照らし合わせると、金沢貞顕や、安達時顕法名:延明)・顕高父子など他の人物での官職に概ね一致しており、かなり史実が反映されているものと認められる。

 

【史料1】からは、殉死した北条氏一門の中に近江前司(=前・近江守)であった宗直が含まれていることが窺え、この人物は以下に掲げる複数の北条氏系図上で確認ができる。成立の年代順に紹介する。

 

系図2】『福富家文書』所収「野津本北条系図」より、北条時房流の部分(一部抜粋)*2

田中稔の紹介によると、この系図は最終的には豊後国の野津院で嘉元2(1304)年に写されたとされる*3が、奥書には弘安9(1286)年9月7日に新旧校合して書写された旨が記されており、宗宣(上野前司五郎、のち第11代執権)の注記「六波羅南方、永仁五年」等一部の追記を除いた大半の部分は弘安9年までに書かれたと考えられ、北条氏各系統の系図は当時の得宗(第9代執権)北条貞時とほぼ同世代の人物で終わっている*4。【系図2】では宣・、そしてがそれまでに第8代執権・北条時(在職:1268年~1284年)*5偏諱を受け元服済みであった人物として並ぶ(宗直から見て、宗宣・宗泰兄弟は従兄弟、宗房ははとこ(再従兄弟)の関係にあたる)。そして、この系図独自の情報として、弘安9年当時の宗直の官途が左近大夫であったことが分かる。

尚、この系図では宗直の父・八郎の実名が「直房」となっているが、以下複数の系図では「頼直―宗直」の系譜で一致している。

 

系図3】「入来院本平氏系図」より、大仏流北条氏の部分(一部抜粋)*6

山口隼正によると、この部分を含む北条氏系図について、成立時期を鎌倉時代後期の1316~1318年の間と推定されている*7。この【系図3】では「直房」が頼直の別名として扱われており、「頼直―宗直」の父子関係は認められよう

 

系図4】「前田本平氏系図」より一部抜粋*8

翻刻してこの系図を紹介した細川重男によると、 元々は仁和寺に所蔵されていた系図の影写本で、室町時代前期の成立とされ、こちらも比較的信頼性が高いという。宗直の注記のうち「佐介近江守」については【史料1】に一致している。

尚、江戸時代の成立で比較的信憑性は劣る『正宗寺本北条系図』では、宗直の注記に「遠江守 伯耆守」とあって違いはあるものの、「遠江守」や「朝直―頼直―宗直―直時」の系譜については【系図4】に一致しており、系譜については前掲全ての系図で共通である。

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父・頼直についてはこちら▲の記事で紹介の通り、『吾妻鏡』に多く登場しており、1241年頃の生まれと推定した。よって、現実的な親子の年齢差を考慮して、息子である宗直の生年は早くとも1260年代前半であった筈であるが、これより下ることはないと思う。

その推測の根拠として、前述にて紹介した【系図2】での注記がポイントになってくるだろう。「左近大夫」とは、左近衛将監従六位上相当)で五位に叙せられた者の呼称であり*9、弘安9年当時は叙爵済みであったことも窺える。

ここで考えたいのが、大仏流北条氏における叙爵の年齢である。

細川氏のまとめ*10によると、大仏流嫡流では宣時が30歳、宗宣が24歳、貞宗(維貞)が17歳と次第に低年齢化していることが分かる。更に生年が判明している宗宣の弟・貞房庶子でありながら叙爵年齢は19歳であった。従って、宗宣以降の大仏流は嫡流・庶流にかかわらず、叙爵年齢が10代後半に向かって低年齢化していたと判断され、その途上にあたる宗直も従兄の宗宣と同様、20代前半での叙爵だったのではないかと推測される。弘安9(1286)年にその年齢を迎えていたとすれば、逆算して1260年代前半の生まれとなるというわけである。

元服は多く10代前半(早い例でも北条氏の得宗家や祖父・朝直などの7歳)で行われたから、その時期は6代将軍・宗尊親王の京都送還(1266年)*11より後になることはほぼ確実だろう。よって、「」の実名は、祖父・朝直や父・頼直から代々受け継いだ「直」の字に対し、「」は前述の通り得宗北条時の執権在任中に元服し、その偏諱を受けたものと判断される。

算出すると、【史料1】で亡くなった当時、享年60代後半~70歳位であったことになるが、国守退任後の年齢として十分妥当である。

 

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尚、貞房については、こちら▲の記事で徳治2(1307)年5月日付「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『相模円覚寺文書』)*12に見える「佐介越前守」に比定され、大仏流の庶子である貞房が "佐介" で呼称されていた可能性を指摘した。佐介流北条氏は、朝直の長兄・時盛(【系図2】)の家系の呼称と認識されることが多いが、実際は次兄・時村や貞房のように、大仏流の庶流に使われていた可能性が高いように見受けられ、【史料1】や【系図4】での "佐介近江守(近江前司)" 宗直もその一例になるだろう。後世の徳川氏・松平氏呼称の使い分けと同様だったのではないか。

 

(参考ページ)

 大仏流朝直系北条氏 #北条宗直

南北朝列伝 #佐介宗直 

 

脚注