Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

北条貞村

北条 貞村(ほうじょう さだむら、1270年代?~1305年)は、鎌倉時代後期の武将、北条氏一門。政村流北条氏・北条時村の子。

 

細川重男の研究*1によれば、嘉元3(1305)年4月23日子の刻に、得宗北条貞時(副将軍*2・前執権、法名:崇演)の「仰」と号する(『保暦間記』)武装集団が、鎌倉・葛西ヶ谷にある連署北条時村(数え64歳)の邸宅を襲って彼を斬殺した際嘉元の乱、嫡孫・貞泰(煕時)以下、時村の子息・親類の多くは難を免れたものの(『実躬卿記』同年4月27日条)、50余りの人が時村と共に落命したといい(『実躬卿記』同年5月8日条)、その中に子息・貞村(『佐野本 北条系図』)も含まれていたと考えられている。ちなみに『諸家系図纂』所収の「北条系図」でも時村の子・貞村に「同父被誅」の記載が見られる*3

鎌倉時代末期の成立とされる『入来院本 平氏系図』においても、時村に「嘉元三四廾〔三 脱字か〕被討了」、その息子の一人・式部大夫茂村に「同時打死(=討死)」の注記があり*4、貞村と茂村が同一人物なのか、或いは兄弟共に討たれたのかは判断し難いが、少なくとも父・時村と共に亡くなった息子がいたということは認めても良いのだろう。

 

尊卑分脈』北条氏系図によると、時村の嫡男(すなわち長兄にあたる)為時は父に先立ち弘安9(1286)年10月6日に22才で亡くなったといい*5、逆算すると文永2(1265)年生まれである。息子・煕時(1279年生まれ)とは僅か14の年齢差となってしまうが、父・時村が仁治3(1242)年生まれである*6ことを考慮すれば、その正確性に問題無しと思う(煕時は為時が数え15歳の時の子となるが、この頃同様の事例は少なからず確認される)

村がその弟だとすれば、早くとも1260年代後半、或いは1270年代の生まれになるだろう。また、嘉元の乱当時は元服を済ませていた筈で10代後半以上には達していたであろうから、遅くとも1290年頃までに生まれていたことも推測可能である。

その名乗りに着目すると、「村」は祖父・政村、父・時村と継承されてきた通字であり、上(1文字目)に戴く「」が元服時、烏帽子親からの偏諱と考えられるが、弘安7(1284)年4月から正安3(1301)年の間、9代執権の座にあった*7から受けたものと考えて問題なかろう。

 

(参考ページ)

 政村流時村系北条氏 #北条貞村

 

脚注