千葉貞胤
千葉 貞胤(ちば さだたね、1292年~1351年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。千葉氏第11代当主。千葉胤宗の嫡男。子に千葉一胤(高胤)、千葉氏胤。通称は千葉介。
貞胤の死没については、次の史料が伝わる*1。
●『常楽記』:観応二年辛卯正月一日、千葉介貞胤他界、
●『下総風早荘平賀邑 本土寺過去帳』抜書(『諸寺過去帳』上 所収):千葉介貞胤 観応二年正月朔、京ニテ卒、六十一
●『観応二年日次記』:正月一日、天晴、一天風静、四海波収、千葉介 年歯*2満六十、逝去云々、
●『園太暦』:正月一日、裏書云 伝聞、今日未時、千葉前介貞胤有事云々、兵革之時分以疫病有事、-
『千葉大系図』では正応4(1291)年12月15日(西暦〈ユリウス暦〉にすると正確には1292年1月6日)の誕生としており*3、観応2(1351)年に61歳(満年齢60)で亡くなったとするのと辻褄が合う。父・胤宗*424歳の時の子となり、親子の年齢差から言っても妥当と言える。
「貞胤」の名は、「胤」が千葉氏の通字であるのに対し、「貞」が烏帽子親からの一字拝領と考えられる。紺戸淳氏の論考に従うと、元服の年次は1301~1305年頃と推定でき、当時の得宗・北条貞時(1301年まで執権、1311年逝去)の偏諱を許されたことが窺えよう*5。
元服の時期については、伯父・宗胤が亡くなって父・胤宗が千葉氏惣領を継承した永仁3(1295)年頃とする見方もある。宗胤の嫡男・竹王(竹若とも、のちの千葉胤貞)が当時8歳と幼少であったこともあって、惣領の座を得た胤宗だったが、その名分に弱かったため、支配権を確立するための一環として、自身の息子を急ぎ先に元服させたと考えられている*6。頼胤次男・胤宗の子が「貞胤」、頼胤長男・宗胤の子が「胤貞」 を名乗ることになり、北条氏得宗家から公認された嫡流/庶流の家系は逆転したと言える。
その他、生涯・活動内容などの詳細は次の各ページをご参照いただければと思う。
● 千葉介貞胤
●『多古町史 通史編』第三章第二節-1「千田胤貞と千葉介貞胤」
脚注
*1:『大日本史料』6-14 P.372 より。
*2:「ねんし」または「としは」と読み、年齢と同義。年歯(ネンシ)とは - コトバンク または 年端/年歯(トシハ)とは - コトバンク を参照のこと。
*3:『千葉大系図』下巻 および 『大日本史料』6-14 P.377 より。
*4:『尊卑分脈』では父を宗胤とするが、同系図は実に簡素なもので誤りも見られ、一方それ以外の系図類では概ね、宗胤の弟・胤宗で一致する。
*5:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.18。
*6:千葉胤貞 ー 小城千葉氏 より。