千葉宗胤
千葉 宗胤(ちば むねたね、1265年~1294年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。千葉氏第9代当主。通称は千葉太郎*1。
はじめに
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建治元(1275)年8月、異国警固番役のために九州に赴き、前年の蒙古軍との合戦で負傷した父・頼胤が、小城の地で没した。これを受けて長男(当初嫡男)の宗胤も九州に下向することとなり、『千葉大系図』によると、永仁2(1294)年30歳にして同地で亡くなったという*2。逆算すると文永2(1265)年生まれとなる。
以下本項ではこの信憑性について改めて考証する。
元服の時期と烏帽子親の推定
建治2(1276)年8月13日付の日蓮の『亀若護三光瓔珞本尊』(京都本満寺蔵)の一つに「亀若護也」という文言が記されており、「亀若」なる人物へ与えられた守護本尊と考えられる*3。この「亀若(丸)」は前年に亡くなった頼胤の幼名でもあるが、これは頼胤の跡を受けて九州の守りを命じられることとなった、当時11歳の宗胤のそれであったと推測される。嫡男として父と同じ幼名を名乗り、この時はまだ元服を遂げていなかったことが窺えよう。
「宗胤」の名が現れ始めるのは、次に掲げる書状4点である。
●【史料1】弘安6(1283)年? 11月4日「宗胤覆勘状」(『禰寝文書』)*4
●【史料2】弘安6(1283)年11月18日「宗胤下知状」(『坂口忠智氏所蔵文書』)*5
●【史料3】弘安6(1283)年12月28日「平朝臣寄進状」(『肥前円通寺文書』)*6
●【史料4】弘安7(1284)年5月12日「宗胤覆勘状」(『坂口忠智氏所蔵文書』)*7
以上4点の発給者は、花押の一致(下表参照)や、佐多弥九郎定親(建部定親)に指示しているその役割から同一人物と判断でき、平姓で「宗胤」を称していたことになる。
そして【史料3】において、小城円通寺に「三間寺大門大寺領内田畠、七條仁新郷山田里参拾壱坪壱町」を寄進し「常胤以来代々幽霊菩提」を弔っている「平朝臣」(=宗胤)は、桓武平氏より出た千葉常胤の子孫である千葉宗胤(『尊卑分脈』など)に同定されよう。
すなわち、鎌倉幕府第8代執権・北条時宗(1284年4月4日逝去)の晩年期の段階では、既に元服を済ませ「宗胤」を名乗っていたことが分かる。まだ「亀若」と名乗っていた1276年の段階で11歳と元服の適齢であったから、恐らく1270年代後半には行われたとみられ、当時の執権であった時宗から「宗」の偏諱が許されたことは間違いなかろう。
その傍証として、正応元(1288)年の書状に「千葉太郎宗胤」とあるのが確認でき*8、当時はまだ千葉介を継ぐ前の段階だったのであろう。「香取社造営次第案」(『香取文書』所収)には、弘安3(1280)年4月12日、香取神社の造営の宣旨が下され、弟の「千葉介胤宗」が雑掌として国衙役である大行事らに指示して材木の調達等、造営を取り仕切ったとあるが、前述史料は室町時代初期の成立ゆえ、雑掌名は宣旨が下された時点または遷宮時期当時のものではないらしく、また当時13歳の胤宗が「千葉介」を称したとも考えにくい*9ので、特に考慮に入れる必要はないようである。
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備考
ちなみに、『続群書類従』または『諸家系図纂』に収められている「浅羽本 千葉系図」では、建武2年三井寺において戦死したとする*10が、『千葉大系図』で同3年に三井寺で戦死したとする千葉貞胤の長子・一胤の経歴を、何らかの混乱があって宗胤のそれとしてしまったものであろう*11。
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これに拠ったのか、『系図纂要』では胤宗の子・貞胤の息子を「宗胤」とし、同様の注記が見られる*12が、本来「一胤」と記すべきところの誤りであろう。
参考ページ
● 千葉宗胤
脚注
*1:正応元(1288)年9月7日付「関東御教書」(『山代松浦文書』、『鎌倉遺文』第22巻16766号)の文中に「千葉太郎宗胤」とある。「千葉太郎」はかつての第4代当主・千葉胤正やその嫡子・千葉成胤(小太郎、第5代当主)が名乗っていた通称名であり、「千葉介」を襲名はしていないが、弟・胤宗に対する名乗り方からしても頼胤の嫡子の立場にはあったと推察される。
*2:『千葉大系図』中巻。大網白里町史編さん委員会 編『大網白里町史』(大網白里町、1986年)P.173。
*3:同様の曼荼羅として、大阪府某所蔵のものを写したとされる宮崎県某寺蔵曼荼羅に「亀弥御也」、8月14日付の本立寺蔵 曼荼羅本尊に「亀姫護也」と記されている。「亀弥」は宗胤の弟・千葉胤宗の幼名、「亀姫」も姉または妹の名前とされる。
*4:『鎌倉遺文』第20巻14989号。
*5:『鎌倉遺文』第20巻15003号。
*6:『鎌倉遺文』第20巻15042号。
*7:『鎌倉遺文』第20巻15195号。
*8:注1参照。