Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

千葉氏胤

千葉 氏胤(ちば うじたね、1335年 または 1337年~1365年)は、南北朝時代の武将。父は千葉貞胤。母は曽谷教信(日礼)の姪・法頂尼と伝わる。通称は千葉新介、千葉介。

 

本土寺過去帳』によると氏胤は貞治4(1365)年9月13日に亡くなったとされ、『増上寺本 千葉系図』・『諸家系図纂』などの系図類では美濃国での病死と伝える*1

本土寺過去帳』を見ると、「千葉介代々御先祖次第」の項目では「第九氏胤 三十一 貞治四年乙巳九月十三日」と書かれているのに対し、中旬(中巻)でのもう1箇所では「十三日 千葉氏胤 貞治四 九月 御年□□」と欠字になっており、以下のように系図類でも異同がある。

増上寺本 千葉系図:同日に41歳

千葉大系図*2:同日に29歳

『諸家系図纂』:貞治2年に31歳

系図纂要:貞治5年に32歳

日付(命日)はどれも一致しており、恐らくは編纂の過程で誤伝・誤写などがあったのではないかと思われる。

このうち『千葉大系図』では、延元2(1337)年5月11日に京都で誕生したとも明記し、没年齢から逆算しても矛盾は無いため、下記参考ページなどではこの説が採用されているが、実際の史料である『本土寺過去帳』の情報も無視はできないと思う。但し過去帳の没年齢から逆算しても1335年生まれとなり、世代的にはさほど変わらない。

 

貞和元(1345)年8月29日に執り行われた天龍寺供養において、後陣の随兵のメンバーに「千葉新介」が見え(『園太暦』・『師守記』・『結城文書』・『天龍寺供養記録』)*3、『太平記』でこの内容を描く部分(巻24「天竜寺供養事付大仏供養事」)では「千葉新介氏胤」と書かれている*4。これらが史料上での初見とみられ、既に元服を済ませていたことも窺える。尚、「」というのは父 "千葉介" 貞胤との区別で付されたものであり、先立って戦死した兄・一胤*5に代わって「千葉新介」を称していた。

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ここで「」の名に着目すると、千葉氏通字の「胤」に対し、1文字目に戴く「」が烏帽子親からの偏諱とみられる(父・貞胤や兄・一胤(初め高胤)までは代々北条氏得宗家を受け、ほぼ一貫して1文字目に置いていた)。前述の生年に基づくと貞和元年には9~11歳と元服の適齢を迎え、「」は当時の将軍・足利尊(在職:1338年~1358年)*6からの一字拝領と判断して良かろう*7

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子の、孫のにも元服当時の鎌倉公方足利氏足利満から偏諱を受けた形跡が見られる。

 

参考ページ

 千葉氏の一族 #千葉介氏胤

 千葉氏胤 - Wikipedia

 千葉氏胤とは - コトバンク

 

脚注