千葉氏胤
千葉 氏胤(ちば うじたね、1335年 または 1337年~1365年)は、南北朝時代の武将。父は千葉貞胤。母は曽谷教信(日礼)の姪・法頂尼と伝わる。通称は千葉新介、千葉介。
『本土寺過去帳』によると氏胤は貞治4(1365)年9月13日に亡くなったとされ、『増上寺本 千葉系図』・『諸家系図纂』などの系図類では美濃国での病死と伝える*1。
『本土寺過去帳』を見ると、「千葉介代々御先祖次第」の項目では「第九氏胤 三十一 貞治四年乙巳九月十三日」と書かれているのに対し、中旬(中巻)でのもう1箇所では「十三日 千葉氏胤 貞治四 九月 御年□□」と欠字になっており、以下のように系図類でも異同がある。
●『諸家系図纂』:貞治2年に31歳
●『系図纂要』:貞治5年に32歳
日付(命日)はどれも一致しており、恐らくは編纂の過程で誤伝・誤写などがあったのではないかと思われる。
このうち『千葉大系図』では、延元2(1337)年5月11日に京都で誕生したとも明記し、没年齢から逆算しても矛盾は無いため、下記参考ページなどではこの説が採用されているが、実際の史料である『本土寺過去帳』の情報も無視はできないと思う。但し過去帳の没年齢から逆算しても1335年生まれとなり、世代的にはさほど変わらない。
貞和元(1345)年8月29日に執り行われた天龍寺供養において、後陣の随兵のメンバーに「千葉新介」が見え(『園太暦』・『師守記』・『結城文書』・『天龍寺供養記録』)*3、『太平記』でこの内容を描く部分(巻24「天竜寺供養事付大仏供養事」)では「千葉新介氏胤」と書かれている*4。これらが史料上での初見とみられ、既に元服を済ませていたことも窺える。尚、「新」というのは父 "千葉介" 貞胤との区別で付されたものであり、先立って戦死した兄・一胤*5に代わって「千葉新介」を称していた。
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ここで「氏胤」の名に着目すると、千葉氏通字の「胤」に対し、1文字目に戴く「氏」が烏帽子親からの偏諱とみられる(父・貞胤や兄・一胤(初め高胤)までは代々北条氏得宗家を受け、ほぼ一貫して1文字目に置いていた)。前述の生年に基づくと貞和元年には9~11歳と元服の適齢を迎え、「氏」は当時の将軍・足利尊氏(在職:1338年~1358年)*6からの一字拝領と判断して良かろう*7。
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子の満胤、孫の兼胤にも元服当時の鎌倉公方(足利氏満・足利満兼)から偏諱を受けた形跡が見られる。
参考ページ
脚注
*3:『大日本史料』6-9 P.249・275・278・287・304・306。
*5:千葉一胤 - Henkipedia 参照。
*6:足利尊氏とは - コトバンク より。
*7:千葉氏の一族 #千葉介氏胤 より。