佐々木宗清
佐々木 宗清(ささき むねきよ、生年不詳(1270年代前半か)~没年不詳(1323年以前か))は、鎌倉時代後期の武将、御家人。隠岐宗清(おき ー)とも。
烏帽子親と生年の推定
『尊卑分脈』を見ると、系譜は「義清―泰清―時清―宗清―清高」であり、宗清の項には次のように注記される*1。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
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父・時清は1242年、嫡男・清高は1295年の生まれと判明している(上記記事を参照のこと)。従って、純粋にこの間を取れば、宗清は1268年頃の生まれとなる。親子の年齢差は各々26, 7歳となり妥当と言えよう。
また、父との年齢差を考えれば、早くとも1262年頃に生まれたはずである。元服後の名「宗清」は、「清」が父から継いだ家の通字であるから、一方の「宗」が烏帽子親からの一字拝領と推測されるが、元服は通常、10歳前半に行われることが多かったので、1266年に解任された6代将軍・宗尊親王*2の偏諱ではあり得ない。1268年~1284年の間、8代執権の座にあった得宗・北条時宗*3が烏帽子親となって偏諱を与えたものと考えて良いだろう*4。
ここで母親との関係を考えてみよう。前述したように、母は大曾禰長経 (1232-1278*5) の娘であったと伝わる。従って、「(外)祖父―(外)孫」の関係にある「長経―宗清」の年齢差は40程度を下回らないはずであり、早くとも1272年頃の生まれとなる。
そして、①1284年までに時宗の偏諱を受けていること、②1295年に嫡男の清高が生まれていることから、遅くとも1275年までには生まれていることが推測される。
よって、宗清の生年は1270年代前半と推定できる。
史料における宗清
本節では、史料上での登場箇所について紹介する。
『皇年代記』正安3(1301)年正月18日条には、二階堂行貞と共に「佐々木隠岐前司宗清」が東使として上洛したことが記述されている。しかし、同内容を伝える『歴代皇紀』正安3年正月17日条、『興福寺略年代記』正安3年正月18日条、『一代要記』正安3年条(日付は10月7日となっているが誤りとされる)では父の「時清」となっており、誤記であるようだ*6。しかし「時清」が他でもない「宗清」と誤記されたこと自体は、当時の時清に宗清と名乗る息子がいたことを暗示するものと言えよう。
実在を裏付けられる史料は他にもある。
平禅門の乱の翌日、永仁元(1293)年4月23日の賀茂祭の参加者「宗清」が、左衛門尉(権少尉)で検非違使を兼ねていたことが『実躬卿記』に見えており*7、佐々木宗清に比定されている*8。
嘉暦4(1329=元徳元)年3月日付「関東下知状写」(『信濃矢島文書』)の文中に「小田切郷佐々木豊前々司跡」とあり*9、信濃国佐久郡大井荘内小田切郷の地頭が「佐々木 前豊前守」であったことが分かる*10。
『尊卑分脈』で見る限り、佐々木氏で豊前守となったのは宗清だけで、この時には既に豊前守を辞していたことが窺える。鎌倉時代当時の国守任官年齢を考えれば、若くとも30代には達していたはずであるが、同じく元徳元年のものとされる12月22日付「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)*11など「佐々木隠岐前司清高」と書かれた史料が複数残されており、1295年生まれの息子・清高が30代に達して国守に任官して辞していることが分かる*12ので、親子の年齢差を考慮して宗清は50代以上であったと推定できる。宗清の生年が1270年代前半であった可能性が高いことは前述した通りであるが、この観点からも裏付けられよう。但し、「跡」という表現からして、恐らくこの時には既に亡くなっていたのかもしれない*13。
参考ページ
● 隠岐流佐々木氏: 佐々木哲学校(佐々木哲氏のブログ記事)
●『尊卑分脈』(新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
脚注
*1:黒板勝美・国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』(吉川弘文館)P.443。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクションも参照。
*2:宗尊親王(むねたかしんのう)とは - コトバンク より。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ記事)より。
*4:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.15系図。
*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№94-大曾禰長経 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その102-隠岐時清 | 日本中世史を楽しむ♪より。
*8:一遍踊念仏と隠岐佐々木氏(5): 佐々木哲学校(佐々木哲氏のブログ)も参照のこと。
*9:『鎌倉遺文』第39巻30552号。
*10:一遍踊念仏と隠岐佐々木氏(3): 佐々木哲学校より。
*11:『鎌倉遺文』第39巻30829号。
*12:これについての詳細は 佐々木清高 - Henkipedia を参照。
*13:『北條貞時十三年忌供養記』によると、元亨3(1323)年10月27日の北条貞時13年忌供養に際し、「佐〻木隠岐前司」が「砂金百両 銀剱一」を進上しており(『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.707)、この頃は既に清高が家督を継いでいたことが推測される。