塩冶高貞
佐々木 高貞(ささき たかさだ、生年不詳(1300年代後半?)~1341年)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武士、御家人。塩冶高貞(えんや ー、旧字体:鹽冶髙貞)とも。
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こちらの記事▲で父・佐々木貞清が1280年代後半の生まれと推定した。これに従えば、高貞の生年は、現実的な親子の年齢差を踏まえて1300年代後半(およそ1305~1310年)と推測できる。
「高貞」の名は、「貞」が貞清からの継字であるから、一方の「高」が烏帽子親からの一字拝領と考えられるが、1311年に得宗家家督を継ぎ、1316年から執権職を務めた北条高時の偏諱であろう。元服は通常10数歳で行われることが多く、前述の生年に従えば、高時執権期間内(1316~1326年)で行われたことが確実となるが、最終官途からもこの点が裏付けられることについては後述を参照。
『諸家系図纂』所収「佐々木系図」によると、貞清は高時の執権辞職・出家に伴う、いわゆる嘉暦の騒動から間もない正中3(1326)年3月28日に亡くなったといい*1、この頃には家督を継げる年齢(20歳程度以上)であったと考えるべきであろう。
史料における初見は、(書状等の一級史料ではないが)鎌倉幕末期の高貞の動向も描く『太平記』や『梅松論』といった当時の軍記物である。
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正慶2/元弘3(1333)年閏2月、元弘の変により流罪となっていた後醍醐天皇が隠岐を脱出。このとき隠岐守護・佐々木清高の同族である "富士名判官" こと佐々木義綱*2が後醍醐の脱出の手引をしたとされるが、『太平記』によれば脱出の実行前、出雲国守護であった高貞は同国に渡ってきた義綱の協力を拒み、「何を思ったか」義綱を捕縛して隠岐に返さなかったという*3。この行動から、慎重に時勢を見極めようとしていたことが窺える。
その後、後醍醐は伯耆国の名和長年を頼って船上山に挙兵。追って出雲にやってきた隠岐守護・佐々木清高から援軍を要請されるもこれを断り(『梅松論』*4)、やがて清高の敗戦が伝えられると、急ぎ義綱と共に天皇方に馳せ参じた(『太平記』*5)。
以降、後醍醐天皇の下での活動が確認できる。次に掲げるのは、翌建武元(1334)年の史料2点である。
● 8月「雑訴決断所結番交名」:発足した建武新政下で、雑訴決断所の寄人に任ぜられる中に「佐々木信濃判官高貞」*6。
● 10月『建武記』(『建武年間記』):10月14日、北山殿笠懸射手の1人として「佐々木隠岐大夫判官(鹽冶)高貞」*7。
「判官(はんがん/ほうがん)」とは、律令制における四等官の第三位である判官(じょう=尉)の職を帯びる者の通称で、高貞の場合は左衛門尉であったことからそう呼ばれていた*8。
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建武2(1335)年、足利尊氏が鎌倉で反旗を翻すとその征討副将軍の一人に指名され、新田義貞の麾下で尊氏方と戦うが、箱根・竹ノ下合戦を機に尊氏・北朝方に寝返った*9。
興国2/暦応4(1341)年3月、高貞は突如京都を出奔するが、室町幕府の執事であった高師直の讒言により謀反の疑いをかけられて幕府の追討を受け、翌4月に自害して果てた。
このことを伝える 『鰐淵寺文書』所収の書状2点・『出雲大社諸社家所蔵古文書』・『鶴岡社務記録』・『萩藩閥閲録』所収の書状1点では、「佐々木近江守高貞」*10と書かれており、最終官途が亡父・貞清と同じ近江守であったことが分かる。
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一方『師守記』では「…今朝聞、出雲并隠岐両国守護 隠岐大夫判官高貞 出雲佐々木、昨日逐電云々、…」(3月25日条)、「…今日聞、隠岐大夫高貞於影山自害云々、…」(3月29日条)と記しているが、「聞」という文言から、伝聞により情報を得たことが窺え、恐らく近江守任官からさほど経っていなかったため、中原師守(筆者)は就任のことを知らされていなかったのであろう。
すなわち、同年の段階で年齢(=享年)は国守任官に相応の30代には達していたと考えられ、1300年代後半の生まれとすれば、辻褄が合う。
(参考ページ)
●『尊卑分脈』(新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
脚注
*1:『大日本史料』6-6 P.696。諸家系図纂「佐々木譜」。
*2:『尊卑分脈』において、高貞の大叔父(佐々木泰清の7男)湯頼清の孫(信清の子)として掲載の雅清と同人(→詳しくは 富士名雅清 - Wikipedia)。高貞のはとこにあたる。
*3:「太平記」先帝船上臨幸事(その3) : Santa Lab's Blog。
*4:南北朝列伝 #塩冶高貞 より。『梅松論』11(文語版)、梅松論11(現代語訳) 参照。『梅松論』当該箇所では「当国の守護人たる」人物を「一族佐々木孫四郎左衛門高久」としているが、『太平記』ですら当時の出雲守護は高貞としており、恐らくは軍記物語の演出として違う人物に置き換えられたのであろう。この話を信ずるならばこれは高貞の行動と解釈し得る。
*5:「太平記」船上合戦事(その4) : Santa Lab's Blog、『朝日日本歴史人物事典』「塩冶高貞」の項(執筆:井上寛司)- コトバンク。
*8:判官 - Wikipedia より。
*9:『太平記』巻14「箱根竹下合戦事」。「讃岐丸亀京極家譜」京極高氏の項・建武2年12月11日条(→『大日本史料』6-38 P.79)。