佐々木清高
佐々木 清高(ささき きよたか、1295年~1333年)は、鎌倉時代後期から末期にかけての武将、御家人。隠岐清高(おき ー)とも*1 。
父は佐々木宗清、母は佐々木宗綱(京極宗綱)の娘*2。妻は太田時連の娘(『続群書類従』所収系図・『諸家系図纂』所収「佐々木系図」)*3。
史料における清高
まず、鎌倉時代のあらゆる史料(書状類)を集成した『鎌倉遺文』等での登場箇所を見てみよう。東京大学史料編纂所データベース による結果は次の通りである(●は『鎌倉遺文』に収録されているもの)*4。
★【史料1】『北條貞時十三年忌供養記』:元亨3(1323)年10月27日の北条貞時13年忌供養において、「砂金百両 銀剱一」を進上する人物として「佐〻木隠岐前司」の記載あり*5。
★【史料2】『花園院御記』 正中2(1325)年11月22日条*6:前年の正中の変を受けて「佐佐木某清高」が東使として軍勢を率いて上洛。
●【史料3】元徳元(1329)年のものとされる、12月22日付「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)*7の文中に「佐々木隠岐前司」。
●【史料4】元徳2(1330)年のものとされる「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)*8の文中に「佐々木隠岐前司」。
●【史料5】元徳2年のものとされる「崇顕(金沢貞顕)書状」(金沢文庫所蔵『供養法作法裏文書』)*9の文中に「□□木隠岐前司清高」。
●【史料6】元弘3(1333)年のものとされる、楠木氏(楠木正成など)攻めの幕府軍のリストに「佐々木隠岐前司一族」が含まれており、清高に比定される*10。
大将軍 | |
陸奥守(大仏貞直)遠江国 | 武蔵右馬助(金沢貞冬)伊勢国 |
遠江守 尾張国 | 武蔵左近大夫将監(北条時名)美濃国 |
駿河左近大夫将監(甘縄時顕)讃岐国 | 足利宮内大輔(吉良貞家)三河国 |
足利上総三郎(吉良貞義) | 千葉介(貞胤)一族并伊賀国 |
長沼越前権守(秀行)淡路国 | 宇都宮三河権守(貞宗)伊予国 |
佐々木源太左衛門尉(加地時秀)備前国 | 小笠原五郎 阿波国 |
越衆御手信濃国 | 小山大夫判官(高朝)一族 |
小田尾張権守(高知)一族 | 結城七郎左衛門尉(朝高)一族 |
武田三郎(政義)一族并甲斐国 | 小笠原信濃入道(宗長)一族 |
伊東大和入道(祐宗)一族 | 宇佐美摂津前司(貞祐)一族 |
薩摩常陸前司(伊東祐光?)一族 | 安保左衛門入道(道堪)一族 |
渋谷遠江権守(重光?)一族 | 河越参河入道(貞重)一族 |
三浦若狭判官(時明) | 高坂出羽権守(信重) |
佐々木隠岐前司 一族 | 同備中前司(大原時重) |
千葉太郎(胤貞) | |
勢多橋警護 | |
佐々木近江前司(六角時信) | 同佐渡大夫判官入道(京極導誉) |
(*表は http://chibasi.net/kawagoe.htm#sadasige より拝借。)
★【史料7】元弘3(1333)年5月9日、後醍醐天皇方に寝返った足利高氏(のちの尊氏)らの攻撃を受けて(同月7日)鎌倉へ落ち延びる途中、佐々木導誉(清高とは同族で、かつ母親同士が姉妹の、従兄弟にあたる)に阻まれて自害した北条仲時(六波羅探題北方)以下432人の名を記す『近江番場宿蓮華寺過去帳』(『群書類従』514所収)*12の中に「佐々木隠岐前司清高 三十九歳」。
【図B】
★【史料8】元弘3(1333)年5月14日付「五宮 守良親王令旨」(『近江多賀神社文書』)の文中に「……忽滅六波羅北方越後守仲時・東使伊勢入道行意・隠岐前司清高等数百騎軍勢、……」*13。【史料7】の内容を裏付けるとともに、生前二階堂忠貞(行意)と共に東使を務めていた可能性が窺える(「東使」が行意のみか、行意・清高の2名にかかるかの読み取りが難しいところである)。
これらの史料により、佐々木清高が ①実在したこと、②隠岐守に任官し辞したこと、③鎌倉幕府滅亡時に東使を務め、39歳で六波羅探題(北条仲時)に殉じたこと が確認できる。
数え29歳であった元亨3年の段階で「隠岐前司」(=前隠岐守)と呼ばれていたことから、当時は隠岐守に任官して間もなく辞していたことが分かる。国守任官の年齢としてもほぼ妥当であり、亡くなった時、元服前後の息子がいたことも踏まえると、【図B】に記載の享年に問題はないと判断される。
この他、『尊卑分脈』には次のような注記があり、息子として重清(しげきよ/使、左門尉)を載せている*14。
軍記物語における清高
その他、当時の代表的な史料としては『太平記』が挙げられる。本来は軍記物語であるが、今日では他の一級史料と内容を比較することで、史料として活用されることも少なくない。この『太平記』で清高の動向が描く部分を見ていこう。
【史料9】『太平記』巻7 より一部抜粋
◆先帝船上臨幸事*15
畿内の軍未だ静ならざるに、又四国・西国日を追て乱ければ、人の心皆薄氷を履で国の危き事深淵に臨が如し。抑今如斯天下の乱るゝ事は偏に先帝の宸襟より事興れり。若逆徒差ちがふて奪取奉んとする事もこそあれ、相構て能々警固仕べしと、隠岐判官が方へ被下知ければ、判官近国の地頭・御家人を催して日番・夜廻隙もなく、宮門を閉て警固し奉る。……「是程に推し当られぬる上は何をか隠すべき、屋形の中に御座あるこそ、日本国の主、悉も十善の君にていらせ給へ。汝等も定て聞及ぬらん、去年より隠岐判官が館に被押篭て御座ありつるを、忠顕盜出し進せたる也。出雲・伯耆の間に、何くにてもさりぬべからんずる泊へ、急ぎ御舟を着てをろし進せよ。御運開ば、必汝を侍に申成て、所領一所の主に成べし。」と被仰ければ、船頭実に嬉しげなる気色にて、取梶・面梶取合せて、片帆にかけてぞ馳たりける。今は海上二三十里も過ぬらんと思ふ処に、同じ追風に帆懸たる舟十艘計、出雲・伯耆を指て馳来れり。筑紫舟か商人舟かと見れば、さもあらで、隠岐判官清高、主上を追奉る舟にてぞ有ける。……忠顕朝臣能々其子細を尋聞て、軈て勅使を立て被仰けるは、「主上隠岐判官が館を御逃有て、今此湊に御坐有。長年が武勇兼て上聞に達せし間、御憑あるべき由を被仰出也。憑まれ進せ候べしや否、速に勅答可申。」とぞ被仰たりける。……長年が一族名和七郎と云ける者、武勇の謀有ければ、白布五百端有けるを旗にこしらへ、松の葉を焼て煙にふすべ、近国の武士共の家々の文を書て、此の木の本、彼の峯にぞ立置ける。此旗共峯の嵐に吹れて、陣々に翻りたる様、山中に大勢充満したりと見へてをびたゝし。
◆船上合戦事*16
去程に同二十九日、隠岐判官、佐々木弾正左衛門、其勢三千余騎にて南北より押寄たり。……隠岐判官は猶加様の事をも不知、搦手の勢は、定て今は責近きぬらんと心得て、一の木戸口に支て、悪手を入替々々、時移るまでぞ責たりける。……隠岐判官計辛き命を助りて、小舟一艘に取乗、本国へ逃帰りけるを、国人いつしか心替して、津々浦々を堅めふせぎける間、波に任せ風に随て、越前の敦賀へ漂ひ寄たりけるが、幾程も無して、六波羅没落の時、江州番馬の辻堂にて、腹掻切て失にけり。世澆季に成ぬといへ共、天理未だ有けるにや、余に君を悩し奉りける隠岐判官が、三十余日が間に滅びはてゝ、首を軍門の幢に懸られけるこそ不思儀なれ。……(以下略)
(*文章は 太平記/巻第七 - Wikisource より引用)
元弘の変を起こして配流となった後醍醐天皇の監視を任されていた清高であったが、"富士名判官"こと佐々木義綱らの手引きもあって後醍醐の脱出を許してしまう。これを知った清高は、後醍醐が立て籠もる船上山への攻撃にとりかかったが、名和長年ら名和氏の軍勢の前に大敗。佐々木弾正左衛門(清高の弟とする説あり*17)らが戦死する中、命からがら助かった清高は小舟に乗って本国隠岐へと戻ろうとしたが、同族・塩冶高貞をはじめとした山陰地方の国人たちは既に宮方に転じ、沿岸を固めていて上陸すること叶わず、やむなく北陸敦賀に逃れた、とある。その後は六波羅探題に合流するも、近江番場宿の仏堂*18にて切腹したということも記されており、巻9「越後守仲時已下自害事」には、北条仲時と共に自害した者の筆頭として「佐々木隠岐前司・子息次郎右衛門・同三郎兵衛・同永寿丸」の記載がみられ*19、前掲【図B】に一致する。『太平記』では「隠岐判官」と呼ばれていた清高だが、ここだけは他の史料通りの「佐々木隠岐前司」となっていて、むしろこちらが正確な史実を反映したものと言えるだろう。
同じく軍記物語の『梅松論』にも同じ内容が描かれており、史実を裏付けるものである。清高の登場箇所に絞って一部抜粋すると次の通り。
【史料10】『梅松論』より
……同年関東の両使上洛して、今度君に与力し奉る卿相雲客以下与党の罪を糾明して、所犯の軽重にまかせて罪名を定めて、翌元弘二(1332)年、後醍醐院を以て先帝と申し奉り、承久の後鳥羽院旧規にまかせて隠岐国へ遷幸なし奉るべしよし治定する間、御所以下用意のために、当国の守護人佐々木隠岐守清高先達て渡海しけり。……(略)……東士利を失ふ時分不思議成りし事は、隠岐国において守護人清高、去年の春より一族等詰番して御所を警固し奉る所に、佐々木富士名三郎左衛門尉と云者、常に龍顔に近付き奉り綸言に応じけるが、天の授くる心にや有りけむ、君を盗み出し奉る。……
……御敵只今も君を襲ひ奉らば、玉躰も危ふく思し召しける所に、御後より守護人清高兵船千余艘、速きこと矢を射るが如くにて御船に目をかけて追付き奉るほどに、皆人色を失へり。……
……清高が船は出雲国三尾の浦に着きて、一族佐々木孫四郎左衛門高久、当国の守護人たるにより、「国中の軍勢を催して与力すべきよし」清高申遣したりけれ共、彼高久返事に及ばず。これはかねて綸旨を給ひし故なり。……
……(中略:後醍醐天皇が奈和又太郎(=名和伯耆守長年)を頼って船上山に向かったという内容)……翌日佐々木隠岐守清高三百余騎にて当山の麓に押寄せたりけるに、長年が親類身命を捨て終日攻め戦ふ間、寄手軍勢数輩討ち捕はれ、疵を蒙る者多かりければ引き退き畢(をはんぬ)。
然る間出雲・伯耆両国の輩一人も残らず君の御方に参りければ、清高力尽き果てゝ出雲国に帰りて舟に乗り、若狭・越前心ざして海上に浮びけり。
(*文章は『梅松論』(文語版)より引用)
(参考記事)
北条高時の烏帽子子
家系は、宇多源氏・佐々木氏一門の中でも、鎌倉時代初期に隠岐・出雲守護を任され山陰に土着した佐々木義清の系統で、代々隠岐守護となった泰清―時清―宗清(『尊卑分脈』など)は歴代得宗(泰時―時頼―時宗)から一字を拝領した形跡がみられ、清高自身も「高」が北条高時から偏諱を受けたものと考えられている*20。
前述の生年を採用し、紺戸淳氏の論考に従えば、元服の年次は1304~1309年の間と推定される*21。但し、高時の元服は延慶2(1309)年1月21日に行われた*22ので、その偏諱「高」を受けたとすればこれ以後のはずであり、その場合数え15歳と遅めの元服であったことになる*23。それまでの当主と異なって「高」を下(2文字目)にしている点など疑問は残るが、高時治世期に「高」の字が許されていることから、一応烏帽子親子関係にあったと考えて問題ないだろう。
嫡男・泰高(やすたか)、次男・高秀(たかひで)についても、「泰」は父と同名を避けるため泰清から1字を取ったもの、「秀」は祖先・佐々木秀義に由来する字と考えられるので、同じく高時の烏帽子子だったのかもしれない。
参考ページ
● 隠岐流佐々木氏: 佐々木哲学校(佐々木哲氏のブログ記事)
脚注
*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.103「隠岐清高」の項。
*2:前注同箇所。『尊卑分脈』では宗綱の女子の一人に「豊前守源宗清母」と記載されている(→ こちら参照)が、宗清の傍注では「母大曾禰上総介長経女」と書かれており(→ こちら参照)、『続群書類従』所収「佐々木系図」でも宗綱娘が清高の母とするため、年代的にも考えて後者が正しいとされる。
*3:一遍踊念仏と隠岐佐々木氏(5): 佐々木哲学校(佐々木哲氏のブログ記事)より。諸家系図纂「佐々木譜」でも長男・泰高の注記に「母信濃守三善時康〔ママ〕女」の記載が見られる。
*4:挙げた史料のうち、★印については注1同職員表でも紹介されている。併せて参照のこと。
*5:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.707。
*6:『史料稿本』後醍醐天皇紀・正中2年11~12月、P.21。
*7:『鎌倉遺文』第39巻30829号。
*8:『鎌倉遺文』第39巻30877号。
*9:『鎌倉遺文』第40巻31120号。
*10:『光明寺残篇』 幕府軍、楠木正成攻めに動員/上里町 より。
*11:『鎌倉遺文』第41巻32136号。
*12:『鎌倉遺文』第41巻32137号。
*13:『鎌倉遺文』第41巻32160号 および 二階堂忠貞 - Henkipedia【史料8】を参照のこと。
*14:黒板勝美・国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』(吉川弘文館)P.442。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照。
*15:「太平記」先帝船上臨幸事(その1)、「太平記」先帝船上臨幸事(その6)、「太平記」先帝船上臨幸事(その7)(Santa Lab's Blog)も参照。
*16:「太平記」船上合戦事(その1) : Santa Lab's Blog も参照。
*17:佐渡大夫判官高氏(佐々木導誉): 佐々木哲学校(佐々木哲氏のブログ記事)参照。
*19:「太平記」越後守仲時以下自害の事(その7) : Santa Lab's Blog 参照。
*20:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.15系図・P.20。
*21:前注紺戸氏論文より。元服の年齢を数え10~15歳と仮定した場合。
*22:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ記事)より。
*23:【図B】にある通り、清高と運命を共にした息子のうち、18歳であった嫡男・泰高に対して、末子の永寿丸は14歳でありながら元服を済ませていなかったことが分かる。このことからも佐々木(隠岐)氏における元服の適齢は14~18歳であったと判断される。他の例として、本文にも掲げた足利高氏が同じく15歳で元服を行ったと伝えられる(→ 足利尊氏 - Henkipedia 参照)。