Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

佐々木時清

佐々木 時清(ささき とききよ、1242年~1305年)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武士。隠岐時清(おき ー)とも。

 

新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その102-隠岐時清 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ記事)による経歴は次の通りである。

 

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№102 隠岐時清(父:佐々木泰清、母:大井朝光女)
  従五位上(分脈)
01:仁治3(1242).    生(1)
02:年月日未詳      左衛門尉
03:年月日未詳      検非違使
04:年月日未詳      隠岐
05:建治1(1275).07.06 引付衆(34)
06:弘安6(1283).06.14 評定衆(42)
07:弘安10(1287).06.  東使(46)
08:正安3(1301).01.  東使(60)
09:年月日未詳*1   出家(法名阿清)

10:嘉元3(1305).05.04 没(64)
 [典拠]
父:分脈。
母:『出雲国守護職次第』(『鰐淵寺文書』)
01:没年齢より逆算。
02:分脈。
03:分脈。
04:分脈。関評・建治元年条
05:関評・建治元年条
06:関評・弘安6年条
07:『新抄』弘安10年6月2日条に「東使隠岐前司時清上洛云々」とある。
08:『歴代皇紀』正安3年正月17日条『興福寺略年代記』正安3年正月18日条。『皇年代記』正安3年正月18日条、「佐々木隠岐前司宗清」とするも,前記史料から時清の誤記であろう。『一代要記』正安3年条は10月7日とするが、誤記ならん。
09:分脈。
10:分脈。鎌記裏書・嘉元3年条。武記裏書・嘉元3年条。

 

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上表にある通り、嘉元3(1305)年の嘉元の乱で、北条宗方と相討ちになる形で最期を遂げた*2時、享年64(数え年)であったと伝わり*3、逆算すると仁治3(1242)年生まれとなる。

紺戸淳の論考*4に従えば、元服の年次は1251~1256年と推定できるが、その実名から北条氏の通字「」の使用が許されていることが窺える。当時執権(第5代)であった北条が烏帽子親となって偏諱を与えたものであろう*5。父・清も3代執権・北条時の1字を受けた形跡が見られ、この慣例に倣ったと考えられる。以降も子・清、孫・清が同様であったことは紺戸氏が指摘された通りである。

 

吾妻鏡』での初見は、建長2(1250)年正月16日条「隠岐新左衛門尉時清」であり、実際は数え9歳で元服済みであったことが分かる。

康元元(1256)年からは「隠岐次郎左衛門尉時清」と書かれるようになるが、建長2~3年当時は、父・泰清が「隠岐次郎左衛門尉」を称していたので、その嫡男である時清は当初「新左衛門尉」と呼称されたのであろう(建長4年より泰清の呼称は「佐々木隠岐(大夫)判官」)。泰清が信濃守となった正嘉2(1258)年*6から、時清は「信濃次郎左衛門尉時清*7、「信濃判官時清」等と呼ばれるようになっており、文永2(1265)年6月23日条・7月16日条の「信濃大夫判官」が終見とされる*8

 

(参考ページ)

www.megaegg.ne.jp

建治元(1275)年の引付衆就任時の段階では既に「佐々木 隠岐守源時清」と呼称されている*9 から、時清は1270年前後に隠岐守となり、間もなく辞したことが推測される(他の史料での「隠岐前司」も前隠岐守と同義である)。当時30歳前後であるのは、国守任官の年齢としても妥当であり、前述の生年を裏付けるものとなる。

 

その他、活動経歴などについては、次のものを参照いただければと思う。 

 隠岐時清 - Wikipedia

 隠岐流佐々木氏: 佐々木哲学校(佐々木哲のブログ記事)

尊卑分脈』(新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その102-隠岐時清 | 日本中世史を楽しむ♪

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関連記事

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脚注

*1:時期からすると、正安3年8月の得宗北条貞時の執権辞職および剃髪に従った可能性が高いだろう。弘安7年の先代得宗北条時宗逝去時は嫡男・宗清が若年であることから出家を見送ったと考えられ、この時は追随したものと思われる。

*2:典拠史料の『鎌倉年代記』裏書・『武家年代記』裏書については、名越貞宗 - Henkipedia【史料A】・【史料B】を参照のこと。

*3:尊卑分脈』より。

*4:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)。元服の年齢を数え10~15歳と仮定した場合。

*5:前注紺戸氏論文 P.15系図・P.20。佐々木泰清の子孫の名前: 資料の声を聴く。尚、北条時頼が加冠役を務めて「時」字を与えた例としては、武田時綱(『甲斐信濃源氏綱要』)、平賀惟時(『平賀家文書』所収「平賀氏系譜」)などが挙げられる。

*6:吾妻鏡』前年10月1日条「大夫判官泰清」であったものが、この年の6月4日条では「信濃守泰清」と書かれている。6月17日条「信濃守」も泰清に比定されるが、8月15日条では「信濃前司泰清」となっており、任官後間もなく辞したことが窺える。

*7:この通称名の初見は『吾妻鏡』正嘉2年6月11日条「信濃次郎左衛門尉時清」。

*8:ここまでの記述は、御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.197~198「時清 佐々木」、P.327「泰清 佐々木」の項に拠った。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*9:『関東評定衆伝』同年条(→『編年史料』後宇多天皇紀・建治元年6~9月、P.20群書類従. 第60-62 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照)。