Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

佐々木泰清

佐々木 泰清(ささき やすきよ、1210年頃?~1287年?(実は1282年?))は、鎌倉時代中期の武士、御家人隠岐泰清(おき ー)とも。

 

 

生年と烏帽子親の推定

吾妻鏡』での初見 と 父兄との関係

『諸家系図纂』所収「佐々木系図*1での注記は次の通りである。

 従五位上 出雲守 隠岐信濃

 弘安十年六月二十八日 於雲州長見本荘頓死 法名泰覚

ここには没年の記載があるものの、没年齢(享年)が書かれておらず、生年を明らかにすることは出来ない。

 

吾妻鏡』では、安貞2(1228)年7月23日条「隠岐次郎左衛門尉」が初見とされ、続いて嘉禎3(1237)年6月23日条・仁治2(1241)年10月22日条に「隠岐次郎左衛門尉泰清」と実名付きで書かれている*2

 

尊卑分脈』を見ると、兄として政義の掲載があり、『吾妻鏡』では天福元(1233)年6月20日条・寛元元(1243)年正月5日条に「隠岐太郎左衛門尉政義」と現れた後、建長2年12月29日条には、佐々木隠岐前司義清の嫡男で、将軍の近習であった「隠岐太郎左衛門入道心願」が突然出家して隠居してしまい、その領地が「舎弟次郎左衛門尉泰清」に下賜されたと書かれている*3

 

父・義清については、治承4(1180)年8月26日条から建保元(1213)年5月3日条まで「佐々木五郎義清」と書かれていたものが、承久元(1219)年正月27日条では「佐々木五郎左衛門尉義清」と書かれていてその間の左衛門尉任官が確認できる。系図では「隠岐守」の注記があるが、その後、延応元(1239)年12月29日条「佐々木隠岐入道」、宝治元(1247)年12月29日条「佐々木隠岐前司」と続き、前述の建長2年12月29日条に「佐々木隠岐前司義清」、弘長元(1261)年5月13日条「隠岐守義清〔ママ、前隠岐守の脱字か?〕」として登場することから、隠岐守任官を果たしたことは間違いないだろう。

 

よって、安貞2年7月23日条の「隠岐次郎左衛門尉」は、隠岐守=義清の「次郎」(次男)で左衛門尉に任官した泰清と考えて良いだろう。『吾妻鏡人名索引』では同年10月25日条の「佐々木左衛門尉」を義清に比定するが、そのような理由から義清は当時隠岐守に任官済みであったと考えるべきであり、誤りであろう。或いは政義・泰清のいずれかかもしれない。

 

尊卑分脈』によると、兄・政義は正応3(1290)年6月17日に83歳(数え年)で亡くなったといい*4、逆算すると承元2(1208)年生まれとなる*5。従って、弟の泰清はこれ以後に生まれたと考えるべきであるが、この20年後には左衛門尉に任官済みで登場することから、1209~10年には生まれていたのではないか。安貞2年までに元服したことは確かで、「」の名はこの頃執権(第3代)であった北条偏諱が許されたものと言えよう*6。泰時が執権に就任した貞応3(1224=元仁元)年*7当時、泰清は15歳程度と元服の適齢であり、泰時が加冠(烏帽子親)を務めたものと思われる。

 

義重・時清との関係 

もう一つ、息子との関係を考えてみたい。 

次男・時清が仁治3(1242)年生まれで、『吾妻鏡』での初見が建長2(1250)年正月16日条「隠岐新左衛門尉時清」であることはこちら▼の記事で紹介した通りである。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

康元元(1256)年からは「隠岐次郎左衛門尉時清」と書かれるようになるが、建長2~3年当時は、父・泰清が「隠岐次郎左衛門尉」を称していたので、その嫡男である時清は当初「新左衛門尉」と呼称されたのであろう(建長4年より泰清の呼称は「佐々木隠岐(大夫)判官」)

 

一方で、公卿・葉室定嗣の日記『葉黄記』宝治元(1247)年5月9日条に所収の「新日吉小五月会雑事定文」を見ると、文中に「隠岐二郎左衛門」、「一流鏑〔馬 脱字カ〕……四番、佐々木隠岐次郎左衛門尉泰清射手 子息新左衛門尉源義重」とあるのが確認できる*8。この時、時清は数え6歳と幼少であったが、兄にあたる佐々木義重が既に元服を済ませて左衛門尉に任官を果たしていたことが分かる。前述したように泰清の生年を1210年頃とした場合、義重は早くとも1230年頃の生まれとなり、この当時17,8歳と推定できるが、左衛門尉に任官したばかりの年齢として妥当であろう。この点からも泰清の生年が裏付けられよう。尚、義の名乗りについては、父である泰清が六波羅評定衆であった縁で、当初六波羅探題であった北条時の偏諱を受けたものとする見解がある*9。 

 

 

史料における泰清

この節では、書状等における泰清の登場箇所を幾つかピックアップして紹介する。

 

出雲大社記』:「嘉禄三年、復督課役、営大社、後柱為蠧所蝕、従迹読之、得十六字、国司右衛門尉昌綱(=後述の朝山昌綱と同人)、守護佐々木信濃前司泰清造之(之(これ)を造る)、……」*10

『藤原隆祐朝臣集』:「法皇(=後鳥羽上皇隠岐国にて崩御、夢とのみ承後、程へて守護左衛門尉泰清かもとより、……」*11

『葉黄記』宝治元(1247)年5月9日条(前述参照)

 宝治2(1248)年4月25日付「佐々木泰清下文」(『隠岐村上文書』)に泰清の花押あり*12

 建長元(1249)年6月日付「出雲杵築社造営所注進状」(『出雲北島家文書』)*13より一部抜粋。

(前略)

流鏑馬十五番

 一番 在国司朝山右衛門尉勝部昌綱

 二番 守護所隠岐二郎左衛門尉源泰清

(中略)

一 十月廿七日朝、守護人左衛門尉源泰清、於仮殿御前、……(以下略)

建長元年8月2日付書状(『出雲日御碕神社文書』)の外題「[     ]守源(花押)」の花押が泰清のものに一致。前半は欠字だが「信濃守」と推定できる*14。 但し、同年12月12日付 出雲国造殿(=出雲義孝)宛ての「佐々木泰清書状」(『出雲北島家文書』)では「左衛門尉」名で花押を据えており*15、外題の「信濃守」は後世に書かれたものと考えられよう。

 建長6(1254)年9月12日付「関東御教書案」(『大内文書』):幕府、日御崎社の修造を「佐々木信濃前司(宛名)に命ず*16

吾妻鏡』では、正嘉元(1257)年10月1日条「大夫判官泰清」であったものが、翌2(1258)年6月4日条では「信濃守泰清」と書かれており、国守任官はこの間と考えられるが、矛盾であり、整合性に疑問が残る。尚、13日後の記事(6月17日条)の「信濃」も泰清に比定されるが、8月15日条では「信濃前司泰清」となっており、任官後間もなく辞したようである*17

いずれにせよ1250年代には信濃守にまで昇ったことになり、前述の生年に従えば当時40代であったことになるが、国守任官年齢として妥当であろう。この点も1210年頃の生まれとする根拠の1つである。

 

 文永8(1271)年11月付「関東御教書」(『出雲千家文書』)文中に「守護人信濃前司泰清*18。 

 文永10(1273)年5月26日付「関東御教書」(『出雲日御碕神社文書』)文中に「佐々木信濃前司*19。 

弘安2(1279)年10月26日付「関東下知状」(『色部文書古案記録草案』)文中に「佐々木信濃前司*20

弘安6(1283)年のものとされる6月29日付「出雲守護佐々木頼泰書状」(『出雲鰐淵寺文書』)文中に「故信濃入道一周忌菓〔ママ〕候之間……」*21。泰清の跡を継いで出雲守護となっていた頼泰が、鰐淵寺の衆徒に対し、同寺三重塔婆造営のための30貫文と銀塔一基を布施して引き続きの協力を要請したものであるが、亡き父・泰清の遺志によるものであったという*22。当時「信濃入道」が故人となり一周忌を迎えていたとあるから、前年=弘安5(1282)年に出家の身であった泰清が死没したことになり、冒頭に掲げた『諸家系図纂』の注記に不一致である。同系図での「年」が「年」の誤記なのかもしれない。

 

 

(参考ページ) 

 佐々木泰清 - Wikipedia

 隠岐流佐々木氏: 佐々木哲学校(佐々木哲のブログ記事)

 佐々木泰清の子孫

尊卑分脈』(新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

脚注

*1:『編年史料』後宇多天皇紀・弘安十年五~六月 P.74諸家系図纂「佐々木譜」

*2:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.327「泰清 佐々木」の項。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*3:『大日本史料』5-22 P.143~144。尚、佐々木政義の登場箇所については、『吾妻鏡人名索引』P.277「政義 佐々木」の項に拠った。

*4:『大日本史料』5-34 P.200 または 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。

*5:佐々木政義 - Wikipedia 参照。

*6:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.15系図

*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*8:『鎌倉遺文』第45巻51366号。『大日本史料』5-22 P.1019

*9:佐々木泰清の子孫の名前: 資料の声を聴く 参照。

*10:『大日本史料』5-4 P.395

*11:『大日本史料』5-12 P.435

*12:『鎌倉遺文』第10巻6962号。『大日本史料』5-26 P.146

*13:『大日本史料』5-27 P.110113。『鎌倉遺文』第10巻7089号。

*14:『大日本史料』5-31 P.96

*15:『鎌倉遺文』第10巻7148号。『大日本史料』5-31 P.328

*16:『鎌倉遺文』第11巻7796号。『史料稿本』後深草天皇紀・建長六年 P.8

*17:このことは、『吾妻鏡』での次男・時清の通称が、正嘉2年6月11日条より「信濃次郎左衛門尉時清」、「信濃判官時清」、「信濃大夫判官」等と変化していることからも裏付けられよう。『吾妻鏡人名索引』P.197~198「時清 佐々木」参照。

*18:『鎌倉遺文』第14巻10922号。

*19:『鎌倉遺文』第15巻11273号。

*20:『鎌倉遺文』第18巻13748号。

*21:『鎌倉遺文』第20巻14886号。

*22:塩冶頼泰 - Wikipedia より。