Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

大原時綱

佐々木 時綱(ささき ときつな、1262年~1314年)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将・御家人。通称および官途は 九郎、左衛門尉、対馬守。

宇多源氏佐々木氏の支流・大原氏の祖である佐々木(大原)重綱の子で、源時綱大原時綱とも呼ばれる。妻は兄・佐々木(大原)頼重の娘。子に貞頼時重重信宗宣貞重、女子長井宗衡?室)、女子佐々木(加地)宗長?室)がいた。

 

 

北条時宗の烏帽子子

『尊卑分脈』佐々木氏系図(以下『分脈』と略記)の時綱の項に「正和三三十五五十三才(年齢は数え年)」の注記があり*1、逆算すると弘長2(1262)年生まれと分かる。「」の名に着目すると、父から継承した「綱」の字に対し、「」は烏帽子親からの一字拝領の可能性がある。元服は多く10代前半で行われたから、8代執権・北条在職期間(1268年~1284年)*2内であることは確実で、「」は宗から偏諱を許され、賜ったものと判断して良いだろう。

同じく『分脈』によると父・重綱は文永4(1267)年に亡くなったといい、重綱晩年期に生まれた息子であったことが分かる。時綱の注記に「九郎」とあることから、その通り9男であった可能性が高い。すなわち父・重綱が亡くなった当時、時綱はまだ6歳と幼少であったことになる。

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佐々木哲も言及の通り、『分脈』を見ると、兄・ 頼重(三郎左衛門尉)の女子に「佐々木対馬守時綱妾 数子母」とあり、血縁・系譜上は叔父と姪の関係にありながら、時綱が頼重の娘を妻としていたことが分かる。『勘仲記』(『兼仲卿記』)弘安9(1286)年3月27日条を見ると、同日の春日行幸に際し、「後陣」「右衛門少尉」として供奉する「源時綱、佐々木又源太、*3とあり、佐々木哲は「又源太」という仮名が(本来「又太郎」が「太郎の太郎」を意味することから)頼重の次に家督となったことを意味するとして、大原時綱に比定されている。その場合、当時25歳で右衛門尉に任官済みであったことが窺えるが、佐々木氏一門には『分脈』で「右門尉」と注記される京極時綱がおり、「又源太時綱」はどちらかと言うとこちらに比定される可能性があるのではないかと思うので注意しておきたい。ただ、頼重の後継者であったことについては筆者も異存はない。尚、春日行幸には「佐々木備中三郎 源宗信(=六角宗信)」や「右衛門府……少尉源行綱佐々木四郎、*4」といった佐々木氏一門の者も随行している。

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よって時綱は、年の離れた兄・頼重が養育にあたり、その娘婿という形を取って養嗣子となり、"頼重の嫡男" という扱いで北条氏得宗家と烏帽子親子関係を結んだものと結論付けられよう

 

時綱の対馬守任官について

ところで、『分脈』では時綱に「対馬守」の注記もあり、右衛門尉或いは左衛門尉の後に国守任官を果たしたことが窺える。同職は叔父・京極氏信が就いたこともある佐々木氏ゆかりの官職でもある。

以下、鎌倉遺文フルテキストデータベース東京大学史料編纂所HP内)に頼って、時綱存命の間の対馬守在任者について確認し、時綱が対馬守に就任し得る空白期間を探ってみたい。

『勘仲記』によると前述の春日行幸の翌年にあたる弘安10(1287)年の段階では、7月13日条に「従五位下対馬守源朝臣光経」の名があり*5、9月21日条にある除目で「遠江平篤時(=北条篤時」らと共に「対馬守大江行頼」が新たな就任者として確認ができる*6。翌正応元(1288)年には「対馬守忠弘」の書状が発給されており*7、同じ九州地方で永仁6(1298)年まで確認できる「対馬守」*8も忠弘ではないかと思う(永仁6年10月1日付「島津忠宗神馬送文案」は島津忠宗から「対馬守殿」宛てに出されているので、忠弘が島津氏一族の可能性もあるが、仮にそうだとしても系譜は不詳である)

その後は延慶2(1309)年6月29日付で「河野対馬守殿」に宛てて幕府から出された「関東御教書」(『尊経閣所蔵文書』)*9が確認でき、正和2(1313)年には宇佐神宮宮司世襲した宇佐氏宇佐公世に比定される「対馬守公世」或いは「対馬前司公世*10と記された書状が多数出され、豊前国の各古文書に収録される形で残されている。

これらの情報から考えると、時綱が対馬守となり得る可能性が高いのは、忠弘と河野通有の間にあたる1300年代初頭になるだろう。その当時、時綱は39歳前後~40代となり、叔父・氏信の就任年齢=30代半ば程度*11とそれほど大差ないタイミングとなる。『分脈』に53歳まで生きたとあるのだから、対馬守任官の注記についても信用して良いと思う。

 

時綱以降の大原流佐々木氏について ―佐々木時重を中心に―

『分脈』を見ると、時綱には多くの男子がいたようで、そのうち長男は貞頼(左衛門尉)、次男は時重建武武者所、左衛門尉)といった*12。貞頼は次の得宗北条貞時偏諱「貞」と頼重(父方では伯父。母方で外祖父にあたるか?)の1字、時重は父・時綱(或いは同様に北条氏からの偏諱と頼重(同前)の各々1字によって、それぞれ名付けられたものと見受けられ、恐らく貞頼が当初の嫡子(家督継承予定者)であったと思われるが、最終的には時重の系統が大原氏となっている。貞頼が左衛門尉任官の20代くらいまでは生き、早世したために、時重が代わって跡を継いだと考えるのが自然だろう。

元亨3(1323)年の貞時13回忌法要(『相模円覚寺文書』)*13や、元弘の乱に際し上洛した鎌倉幕府の軍勢(『伊勢光明寺残篇』)に名を連ねる「佐々木備中前司*14は、後述の史料から佐々木(大原)時重に比定して良かろう。時綱が20代の1280年代に生まれ、1323年当時40歳程度で備中守を退任済みであったと考えれば丁度良い推測であると思う。

建武元(1334)年9月27日、後醍醐天皇の加茂神社行幸足利尊氏が供奉した際、「帯刀廿一番」の一番として「佐々木備中前司時綱」が随行しており(『朽木文書』)*15、同内容を記したと思われる「足利尊氏行幸供奉随兵次第写」(『小早川家文書』)でも「汲兵」の中に「佐々木備中前司時綱」が含まれている*16が、『建武記』(『建武年間記』)同年10月14日条に北山殿笠懸射手のメンバーとして「佐々木隠岐大夫判官高貞 同備中前司時重*17とあるから、時重と判断して良いだろう。冒頭で述べた通り建武元年当時時綱は故人であり、「時綱」は「時重」と書くべきところを誤って父の名で書いたものと解釈しておきたい*18

『分脈』での注記「武者所」については、同じく『建武記』に延元元(1336)年4月時点でのリストが載せられているが、当時足利尊氏との戦い建武の乱)の最中に作成されたため、一色頼行のように建武年間初期には属していた足利方の人材が含まれておらず、同じく載せられていない時重も同様だったのかもしれない。

間の建武2(1335)年8月19日の「辻堂・片瀬原合戦」において、足利方であった「佐々木備中前司父子」が戦傷を負っており*19、佐々木哲時重・仲親と見なされている*20

『分脈』には、時重の子として時親が載せられるのみだが、『梅松論』には建武3(1336、のち延元に改元)年1月の京都攻防戦において佐々木備中守仲親三浦因幡守貞連の両侍所が首実検を行ったとある*21

一方、時親は『園太暦』貞和5(1349)年3月25日条の除目に同族の「越中権守源信(=佐々木(高島)信顕)」と共に「備中守源時親」と見え*22、この時に備中守に任官したことになるから、十数年前に備中守であった仲親とは別人であることは明らかである。佐々木哲系図に載せられていないものの、「親」字の共通から時親の兄弟で、六波羅探題北方・北条(在任:1330年~1333年)偏諱を受けたのではないかと説かれている。

時親は『分脈』に観応3(1352)年10月18日に29才で亡くなったとあり*23、逆算すると1324年生まれとなる。少し親子間で年齢は離れるが、仲親という兄がいたのであれば、特に問題はないと思う。

備中守在任時期のずれを考慮すると、仲親は1310年代の生まれになり、これも父・時重との年齢差で問題はない。史料が無いので確認は難しいが、年代的に仲時を元服時の烏帽子親とすることは可能になってくると思う。「重―綱―重―親」と4代に亘り北条氏と継続的に烏帽子親子関係を結んだ可能性を考えても良いかもしれない。

 

尚、時親以降の当主「信―信」は、祖先・佐々木信綱(重綱の父、時綱の祖父にあたる)ゆかりの「信」字を復活させると共に足利将軍家偏諱を受けた様子であり、以降の「信―綱―信―重(―?―親)」でもその慣例が続いたことが窺えよう。

 

(参考ページ)

 佐々木大原氏系譜(2訂): 佐々木哲学校

 大原重綱: 佐々木哲学校

 武家家伝_大原氏

 

脚注

*1:『大日本史料』6-17 P.623

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。

*3:勘仲記 2 - 国立国会図書館デジタルコレクション。『鎌倉遺文』第21巻15863号。

*4:高島高信: 佐々木哲学校では『分脈』に高島泰信の子として掲載の右衛門尉行綱に同定しており、筆者も特に異存はない。

*5:『鎌倉遺文』第21巻16289号・16295号。

*6:『鎌倉遺文』第21巻16346号。

*7:『鎌倉遺文』第22巻16700号。

*8:『鎌倉遺文』第24巻18264号、第26巻19770号・19838号。

*9:『鎌倉遺文』第31巻23719号。

*10:公世が対馬守であったことについては、絶家・社家〔宇佐〕-公卿類別譜(公家の歴史)宇佐氏考 を参照のこと。

*11:『分脈』での注記から氏信は1220年生まれと判明しており(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№99-京極氏信 | 日本中世史を楽しむ♪)、『吾妻鏡』での表記の変化から、1252~1256年の間に対馬守となったことが分かる(→ 京極頼氏 - Henkipedia の表を参照)。

*12:『大日本史料』6-17 P.624

*13:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.708。

*14:元徳3/元弘元(1331)年9月5日付「関東御教書案」(『鎌倉遺文』第40巻31509号、『新校 群書類従』第19巻 P.738)に「佐々木備中前司」、同年10月15日付「関東楠木城発向軍勢交名」(『鎌倉遺文』第41巻32135号)には宇治から大和道へ向かう陸奥守=大仏貞直の軍勢の中に「佐々木備中前司」、元弘3(1333)年4月日付「関東軍勢交名」(『鎌倉遺文』第41巻32136号)に「佐々木隠岐前司一族 同備中前司」が名を連ねている。

*15:『大日本史料』6-1 P.913

*16:『大日本古文書』家わけ第十一 『小早川家文書之二』P.169(二九四号)

*17:『大日本史料』6-2 P.37

*18:仲村研「朽木氏領主制の展開」(所収:『社会科学』17号、同志社大学人文科学研究所、1974年)P.173では備中前司時綱を佐々木氏一門・朽木氏の人物(のちの朽木義信)とみなしているが、前年の段階で「朽木亀若」と幼名で現れているため誤りであろう。

*19:足利尊氏関東下向宿次合戦注文」(国立国会図書館所蔵『康永四年延暦寺申状紙背文書』所収、『神奈川県史 資料編3 古代・中世(3上)』3231号。北条時行史料集〜中先代の乱〜大須賀氏二 #大須賀宗朝延暦寺申状 [1] - 国立国会図書館デジタルコレクション

*20:佐々木大原氏系譜(2訂): 佐々木哲学校 より。

*21:三浦貞連 (因幡守) - Henkipedia【史料5】参照。

*22:『大日本史料』6-12 P.571

*23:『大日本史料』6-17 P.624